フランスワインの歴史
アルザスワイン の 歴史

 

アルザスゆかりの文化人

アルザスのストラスブールは、ヨーロッパの中央にあって、自由な市民活動、経済的繁栄、中世以来の文化の蓄積、宗教問題への寛容性を持つ国際都市で、多彩な文化人を生み育ている。

グーテンベルグ


(Johannes Gutenberg 1400?~1468)
ストラスプールの大聖堂の前を出た通りに、その功績を記念したグーテンベルク広場がある。 彼が、ストラスプールで印刷機械を発明したということに一般的にはなっているが、印刷術の発展に関する話はもう少し複雑で、誰が印刷術の発明者かについての論争は続いている。

しかし、印刷のような技術は、ある日突然、誰かによって発明されたと言う事はまず考えられないから、発明者を争うのはあまり意味がない。
欧州の色々なところので、印刷に関する発見や改良がなされ、それが相互に重なり、活字印刷技術が発展していく流れの中で、グーテンベルグが最も重要な働きをしたことは間違いない。

マインツ生まれのクーテンベルグが、ストラスブルグにやって来たのは1434年で、初めは、金細工師としての仕事をしていたらしい。 印刷に関しては、最初、3人の有志と企業化を試みたが失敗に終わった。50年ごろマインツにもどり、同じ金細工師のヨハン・フストと提携して印刷機を製作し、比較的小型の書籍や一枚刷りの刷り物の印刷を始めた。 「グーテンベルク聖書」あるいは「四十二行聖書」などの名で有名なラテン語の大判聖書も、おそらくはこの印刷機で印刷されたようだ。
55年、フストに資金返済の訴訟を起され、印刷所を失う。

フストと決裂の後も、グーテンベルグはマインツとその近郊のエルトビルで印刷業を続け、その業績が認められ、65年にマインツ大司教アドルフ2世の庇護を受けることになる。 クーテンゲルグ 印刷術は、1460年代にアルプスを越えイタリアへ、ついでパリ、ロンドンに入った。宗教書から、科学書、ギリシャ・ローマの古典が印刷の対象になり、16世紀のルネッサンスの起動力になった。

グーテンベルグ

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ゲーテ(Johann Wolfgang Von Goethe 1749~1832)
ゲーテは、ライプチヒ大学で法律学を学んだ後、青春真っ只中の20歳の頃、ストラスブールにやって来て、哲学、文学、医学の講義を受け、1771年8月、ストラスブール大学の学位を無事取得している。

ゲーテは、ストラスブールで、彼の文学的生涯にとって重要な、2人の人物に出会っている。1人は、近郊のゼーゼンハイムの牧師の娘フリーデリケ・ブリオンで、彼女は後に、「ファウスト」のグレートヒェンなど、いくつかの作品のモデルとなっているが、「詩と真実」には彼女への愛がアルザスの田園と一体化したような形で語られている。
もう1人は、彼の青春時代にもっとも大きな知的刺激を与えたとされる、哲学者で批評家のヘルダーであった。ヘルダーは、当時のドイツに広く流行していたフランス古典主義の理論を捨て、感情を直接表現するシェークスピアの演劇を評価することを、ゲーテに教えた。

また、ドイツ文学の発展のためのすぐれた源泉として、ドイツの伝承詩歌とゴシック美術を再認識することを促がした。

「シュトュルム・ウント・ドランク(疾風怒涛)」の運動に対する18世紀のフランス社会思想の影響の強さはよく指摘される事であるが、ゲーテのストラスブール留学の成果が後になって芽を出したものである事は間違いない。

ゲーテ
パスツール (Louis Pasteur 1822~1895年) 
ストラスプール大学は、1968年の学制改革によって、3つの大学に分かれている。第一大学は、医学部と経済学部を柱として物理学、生物化学など自然科学系領域を擁する大所帯で、通常、ルイ・パスツール大学と言う。第一大学がルイ・パスツールの名を冠したのは、彼が1849~1854年までストラスプール大学の教授を勤めていたからである。

ストラスブールで数年を研究についやしたのち、1854年にリール大学に移り、化学教授、理学部長となった。この学部の設立の理念に、化学を同地方の産業、とくにワインやビールを醸造するうえでの問題に応用することがあった。
彼はただちに、発酵過程の研究に没頭した。酵母が発酵になんらかの役割をはたしていると考えたのは、彼が最初ではなかった。
しかし、以前行った化学的特異性の研究を基に、ワインの腐敗(酸っぱくなる)は、望ましくない乳酸や酢酸など生じるからで、それは、細菌など余分な微生物が存在するためだということを示した。フランスでは、ワインやビールがすっぱくなる現象(酸敗)が、経済問題となっていた。 パスツールは、始めに、糖液を高温処理すれば細菌を除くことができることを示して、この問題を解決した。

現在のワイン醸造は、パスツールのこの研修成果の上に成り立っていると言っても過言ではない。 病気の細菌説を証明し、低温殺菌法を発明し、数々の病気のワクチンを開発し、近代微生物学の基礎を築きいた、この偉大な化学者の死に対しては、フランスは、国葬をもって、その栄誉と業績を讃えた。1895年のことである。

パスツール
アルバート・シュヴァイツアー(Albert Schweitzer 1875~1965)
シュヴァイツアーはアルザスが生んだノーベル平和賞受賞者である。ストラスブール大学、パリ大学、ベルリン大学などで哲学、神学、医学を学んだ後、1900年、ストラスブールの聖ニコラス教会の聖職者となり、翌年、宗教哲学の講師となる。

オルガン奏者としても名声を得ており、特に、バッハの音楽における宗教的な特性を強調し、単調で直線的な演奏形式を唱え、後の標準的な演奏スタイルを確立した。
その音楽的基盤はフランスかドイツかと問うが、この二つが結びついたアルザス文化の良い見本が、シュヴァイツアー芸術であると言えるであろう。

国と国との垣根を越えた普遍性をシユヴァイツアーその人の人格が持っている。赤道アフリカのランバレネ(現ガボン共和国)に於ける、ハンセン病患者を含む多くの病人への、彼の献身的医療活動を知っている人は少なくないが、その医療活動を支えたのは、彼自身の音楽演奏のレコードからの収入であったことを知る人は少ない。

ある時は哲学・神学者、ある時は医者、音楽家として多彩な活動をしながら、一人の人間としてシュヴァイツアーが体現していったのは、「人類の平和の道」であった。 最晩年は核兵器廃絶に献身的な努力を重ねた。この人ほどノーベル平和賞受賞者としてふさわしい人はいない。

アルバート・シュヴァイツアー
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