フランスワインの歴史
ブルゴーニュ・ローヌの歴史

 

アヴィニヨンの幽囚-AVIGNON

中世に入ると、教皇を頂点とするローマ・カトリックは、民衆の精神世界を握り、支配していたから、世俗的権威も増大してくる。必然的に、諸国の王との対立が顕著になってくる。 教会自体も組織の拡大が腐敗を生み、修道院が出来、クリュニーのような新しい組織の誕生が、この対立に拍車を掛ける事になっていった。

ドイツでは、ハインリッヒがローマ教皇に反抗したが、諸公が群雄割拠していて王権の地盤が弱かったから、教皇に破門状をふりかざされて、「カノッサの屈辱-1077年」を忍ばねばならなかった。 英国では、王権が強かったから、ローマの支配を間接的なものにしてしまう、独自の国教会制度を打ち立てる。 フランスでは、フィリィップ4世が、フランス国内にある教会領に対しての教皇の支配権、徴税権、聖職者任命権を不満として、その権利を奪回しようとした。

教皇ボニファティウスと激しく対立していたフランス王フィリップ4世は、様々な権謀術数をめぐらせた末、1305年、自分の息の掛かったボルドーの大司教ゴツトを教皇に就けることに成功し、教皇クレメンス5世としての即位の祭典を、リヨンで、絢爛豪華に行なわせた。この祭典には、当時の全ヨーロッパの君主が参列したものだった。

フィリップ4世は、教会権力へ手を緩めることない介入に策を弄し、遂に、1309年教皇座をローマから南仏の小都市アヴィニヨンに移すことに成功する。 以後、1377年までの7代68年間、教皇座はこの都市に留まった。人々は古代ユダヤ人がバビロンに強制収容された故事にちなんで「教皇のアヴィニヨンの虜囚または幽囚」と呼んだのである。

アヴィニヨンの町自体は自由都市であったが、国際都市として空前の繁栄をみた。治外法権の町だったから各国の政治犯・宗教犯が避難所にしたし、ならず者や売春婦も流れこんできた。平和ではあるが、享楽・悪徳のはびこる罪業の町、ソドムのようだったらしく、イタリアの詩人ペトラルカは「不道徳犯罪のたまり場」と語っている。

アヴィニヨンの初代教皇に選ばれたボルドーの大司教ゴツト(改名してクレメンス5世)は、ワインが大好きで、ボルドー市の郊外に葡萄園付き別荘を持っていたが、それが今日のグラーヴのシャトー・パープ・クレマンである。(クレマンはクレメンス。バープは教皇の意)。 アヴィニヨン3代目のクレメンス6世は、陽気で派手な性格だった。夏の酷暑を避けるために、アヴィニヨンから少し北、オランジユのそばに別荘を作った。 当然のことながら周辺に葡萄園を造ったが、そのワインが有名になって「シャトーヌフ・デュ・パープ」(教皇の新城館の意味)の名を戴くことになった。 この教皇とワインの関係は、ドーデの『風車小屋だより』の中の「法王の牒馬」で面白く描かれている。

 

 

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