フランスワインの歴史
ブルゴーニュ・ローヌの歴史

 

ブルゴーニュ公国の形成と繁栄

ブルゴーニュ公国とは、フランスの現ブルゴーニュ地方を本領とした公領で、1361年カペー系ブルゴーニュ公家が嫡子なく断絶すると、ヴァロワ朝第2代のフランス国王ジャン2世がその相続権を獲得したが、これを王領には編入せず、末子フィリップのためにブルゴーニュ公本領を親王領とした。

その後このフィリップ(豪勇公)は、フランドル伯領の相続人であったマルグリット・ド・マルと結婚。こうした結婚・外交政策や武力により、ブルゴーニュ公国はやがて1384年にはフランドル、フランシユ・コンテ、アルトワ、ヌヴエール、ルテルを併せて大ブルゴーニュ公領を構成するに至る。

このようなブルゴーニュ公国の領土拡張政策は、フィリップ豪勇公に続くジャン無怖公、フィリップ善良公、シャルル突進公の4代百年余りに渡って追求され続け、その最大版図は、南の本領地ブルゴーニュ、ヌヴエールから北の北海沿岸フリースランドに達し、アルザス、ピカルディなども併せている。

これらは、ヨーロッパでも当時最も豊かな地方で、特にフランドルの経済的・文化的活力は目覚ましく、フランス・イギリスが共にこの地を虎視眈々と狙っていた。

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ブルゴーニュ家の当主は、例えば、フィリップ豪勇公は十字軍派遣の中心的存在として中世的騎士を理想とした君主であった。また、フイリップ善良公は週に4日、パンと水のみの断食をしたり、戦勝感謝の祈りを長々とする信心深い君主であった。しかし、彼ら4代の君主の最大関心事はブルゴーニュ公家の威信の拡大であった。

ジャン無怖公は、フランス王シャルル6世の後見人の1人となり、やがてフランス王国の実権を握った。オルレアン公はこれに激しく反発し、フランス国内を2分するアルマニヤツク派対ブルギニョン派の諸侯の争いを引き起こすこととなる。王家をも凌ぐ大きな勢力となったブルゴーニュ公家が、時にイギリスに接近するなどの動きを示した後期百年戦争は、きわめて複雑なものとなり策謀と戦闘に明け暮れた。

一方、豊かな富を背景に、ブルゴーニュ公家は、この時代のヨーロッパで最もみごとに整えられた宮廷を現出させ、金羊毛騎士団の華麗な祝祭や宴会の美食と豪勢ぶりは、フランス王家をはるかに凌ぐものだった。

しかし、深慮に欠けたシャルル突進公は老獪なフランス王ルイ11世の策略の餌食となり、1477年ナンシーの攻城戦であえない最後をとげる。かくしてブルゴーニュ公国はフランス王国に併合されてしまうのである。

 

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ブルゴーニュと言う地名はブルグント族に由来している。
いわゆるゲルマン民族大移動の際、ノルウェーあたりから移住して来た北欧人種で、アッティラ王との戦いに敗れ、その残党が最終的にジュネーヴに定住する。

フン族が再攻して来た時、西ゴート族と共にローマの連合軍に加わり、勝利し、後にディジョンからローヌ河流域に領地を広げ、ブルグント王国を作っていく。

英雄叙事詩「ニーベルンゲンの歌」は、こうしたブルグント族の血と汗の戦いの物語である。
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