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ローマ時代のキリスト教

「カエサルのものはカエサルへ」と説いた初期キリスト教は、ローマの国家権力とは結び付かず、おびただしい殉教者を出すが、その殉教者の信仰心が逆に民衆の心を動かし、またたくまにガリアの辺境からブリタニアまで、都市において急速に広まっていく。

それは、帝国の隅々まで張りめぐらされたローマ街道によって、人々の交流(軍事・交易)が活発に行われていたことによる。 もしキリスト教が500年前か、500年後に始まって、ローマ文明のよう地盤を持たなかったら、間違いなく地方的な宗教に留まっただろうと歴史家は言う。

曲折はあるが、325年、コンスタンティヌス帝によってキリスト教は公認される。 教義の広がりは自然と聖職者と言う専任の階層を生み、各地に聖職者を取りまとめる司教が置かれる。
司教職は、行政能力に長けたローマの貴族が殆ど担っていたから、世俗的、社会的に教会は大きな力を持つようになる。教会は信者の精神的支えでもあるが、信者が増えるに従い財政的にも豊かになっていく。

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330年、自らキリスト教徒になったコンスタンティヌス帝は、弱体化した国家権力の建て直しのため、首都をローマからコンスタンティノーブルに移す。 これによって東方キリスト教世界(皇帝が教皇を兼ねるビザンティン帝国)が形成されていくことになる。ギリシア化の進行や、イスラムによるオリエントの領土喪失、西欧諸国の自立などによって、当初とは大きく姿を変えはするが、若干の断絶を挟みつつ1000年に渡ってローマ帝国の正統な後継者として、1453年オスマン帝国に滅ぼされるまで存続した。

一方、ローマは、首都移転によって、政治権力の弱体化と混乱をきたすが、その中で次第に、ローマ司教が、西方キリスト教世界の権力の中枢として君臨するようになっていった。それが、後の教皇である。教会が、ローマ司教を頂点とするピラミッド型の組織に変貌し、中央集権化が進んだ結果である。

しかし、このローマ帝国の西半分は、教皇の権力の伸長と時を同じくして起きるゲルマン民族の侵入によって、ローマ帝国の持っていた世俗的・社会的権力が、教会とゲルマンの首領とに二分され、東方とは違った西ヨーロッパの世界を作っていくことになるのである。

つまり、ビザンツ帝国が皇帝教皐主義として、また、イスラム世界が神政政治として軍事力を伴う政権と教権が一体化しているのに対して、西ヨーロッパ世界では、ローマ帝国の普遍的な「帝国」理念が、ローマ教会に継承されてはいるが、軍事力を持たない宗教権威だけで、世俗権力は王が持っていて、それぞれが自立しながら、共生関係にあることで、性格を大きく異にする。

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