フランスワインの歴史
ブルゴーニュ・ローヌの歴史

 

クリュニーとシトー派の修道院

ローマ時代のキリスト教は、都市中心の宗教であった。
ローマ帝国が崩壊すると、聖職者の多くが貴族の出であったから、その権威と精神を引き継ぎ、教会財産の管理者として富裕化すると共に、俗化していった。
加えて、各地の領主は司教座すら家産のように見なして、子弟をその職に就かせ、その地位を相続財産のように扱ったので、聖職者の俗化には拍車が掛かった。

 

こうした宗教界の俗化に対して改革運動が起きる。

当時の一般的聖職者が、組み込まれがちな世俗の階層秩序に入るのを拒み、それとは離れて、宗教の純粋性を守る生活を行なおうとする動きである。

529年、イタリアのモンテ・カシーノに、聖ベネディクトゥスが創設した修道院は、清貧、強い信仰心、高い教養を持つ聖職者を養成したが、それがフランスにも入ってくる。 しかし、フランスの修道院は、辺境で孤立して清貧な自給自足の生活を営むこのモンテ・カシーノの修道院とも、俗化した既存の教会・寺院とも違った、別系統のものとして形造られ発展していった。

910年、アキテーヌ公ギヨームが、ブルゴーニュ地方のマコンの人里離れたクリュニーの荒地に修道院を建設寄進した。
聖ベネディクトゥスの戒律を厳守し、正しいキリスト教の世界を具現させるのが目的だった。寄進の条件としていっさいの世俗的支配から免れるべきとしたことが、この修道院を予想もしないものに発展させることになった。

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国王、領主、その他の世俗的権力の支配から離れ、教皇のみに従属する組織として始められたため、歴代のローマ教皇は、この修道院にほかにない特権を与えるとともに、信者たちに寄進を促した。その結果、建立50年後には、全ヨーロッパの注目と富をひきつけるようになる。

ブルゴーニュの片すみの小修道院であったクリュニーは、12世紀初頭にはキリスト教世界で未曾有の宗教帝国の首都といえる存在になっていった。 後に、ローマのサン・ピエトロ寺院が建立されるまでは、ヨーロッパ最大の寺院と言われる建築物を持ち、(フランス革命時に破壊されるが・・・) 傘下に約1,500の分院を擁する大修道会として、ヨーロッパを精神的に支配するようにまでなるのである。
規模の拡大発展 にともなう経済的繁栄は、当然ながら奢侈と堕落を生むようになる。

1098年、ロベール・ド・モレームが、本来の姿の修道院に戻り、禁欲・黙想・清貧・難行苦行の修道生活を営むという目的から、ニュイ・サン・ジョルジュの東の”葦”の生い茂る荒地に小修道院をつくる。それは、”葦”にちなんでシトー派と呼ばれた。

 

クリュニー修道院

 

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聖ベルナールとシトー派修道院

 

このシトー派の修道会を、その後育てあげたのが聖ベルナールである。
彼は断食と苦行でやせ衰えた身体に、強靭な精神力と火のような弁舌カを備え、王侯や教皇の権威にたじろがない精神力を持ち、波瀾に富んだ生涯を送った。
やがて多くの分院を従え、クリユニーにかわってヨーロッパ精神界に指導力を持つようになり、西欧カトリックの真の支配者になった。

彼は第二次十字軍の提案者であり、アベラールとエロイーズ事件の立役者でもあった。このシトー派修道僧たちが開墾したのが、クロ・ド・ヴージョ のぶどう園である。彼らは欧州各地に修道院を作り広げて行くと共に、ドウ畑をも開墾して行った。それが現在の各地の名醸地の礎になっているのである。

クロ・ド・ヴージョの葡萄畑の中に接客用に建てた建物が、今日クロ・ド・ヴージョのシャトーとして、利き酒騎士団 (シュヴァリエ・デュ・タートヴァン・・・ブルゴーニュワインの振興団体)の本拠になっている。

 

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