フランスワインの歴史
ロワール古城歴史散歩

 

アンジェ城-英国王となるアンジュー家発祥の地

アンジェ城

ケルト人の時代からの古い歴史を持つアンジェの町は、ソーミュールから約50キロ、ロワール川の支流メーヌ川にある。
9世紀末に、この地に城を築いたのが、ロワール河流域の歴史に大きな影響を及ぼすことになったアンジュー家で、その先祖は、「赤毛のフルク」と呼ばれていた。

アンジュー家(プランタジネット家)の当主は、通常皆、このアンジェを本拠にした。英国プランタジネット朝初代王ヘンリー2世(在位1154~89)もそうで、大陸にいるときはアンジェの城に滞在することが最も多かった。
彼が大陸で支配していた広大な領土のほぼ真中にあって、四方に睨みをきかすことが出来た事と、メーヌ川とロワール川の水運により海と繋がっているという利点もあった。

フィリップ2世(在位1180~1223)の手によってフランス王家の所有に帰した後、孫のルイ9世がアンジェの城を全面的に改築した。1228年から38年に掛けてのことで、それが現在のアンジェ城である。
19世紀になって、大通りを通すために、出丸は完全に取り壊されてしまった。それでも城門にはハネ橋を設けてあった跡や かつて城を取り巻いていた堀だった所は今では公園になっていて、夏ならば模様花壇が美しい。

城壁の高さは40メートルもあり、大きな円塔がいくつも突出している。円塔の数は全部で17。どの円塔も赤黒い石と白い石を使って豪快な縞模様を作っている。 城を左に見ながら坂道を登って行くと、右側は旧市街で、左側には現在の城への入口がある。この城はメーヌ河畔の高い台地の突端を切り取るという形で造られている。

 

アンジェ城

 

領主と城
メロヴィング朝時代には、封建領主は、領土の所有者ではなく、単に王から委任された者に過ぎなかった。その領土の警護という職務への代償として、ただ当時の慣習が認めていたいくつかの権利を与えられていたに過ぎなかったのである。
その後、バイキングとサラセン人の侵入(8-9世紀)が始まった。それは、カール大帝が建設した中央集権国家の完全な衰退と時を同じくしているのだが、 中央の力が無くなり、地方ごとに自衛し住民の暮らしを確保しなければならなくなった。自衛できる範囲は、最初は限られたものであるから、地方ごとの極端な細分化が起こった。そして、その土地の領主は次第に世襲化されていったのである。

実際、当時の封建領主の役目は、今日のわれわれにとっての軍隊と裁判と警察に相当するものである。国は報酬をよこさないから、領土からの上がりで、自らを養うようになり、領民から受けるその糧の量は領主の采配で決められいった。この領主采配如何が領土の繁栄と拡大に繋がるのである。

中世の城は、一つの小世界であった。 城壁の中には、領主や封臣(交代で年間40日の兵役の義務)だけでなく、周辺に住む農民も非難出来た。
(経済が発展してくると、商人や職人も同様に) 貴族の称号だが、、たとえば「公」は〔中世ラテン語で〕デュックス、軍事指揮者を意味する。
「侯」はマルシオで辺境、つまり国境を守る者。
「伯」は、コメスで仲間、王の友人の意味で、王は伯に対し、統治する領土を割り当てて委任していた。
公にしろ侯にしろ伯にしろ、領主と呼ばれていたが、これは経験豊かな年寄りのことで、管理者を指した。従って、貴族とは、その由来は、土地を有する人のことであり、軍事的な事柄は、その身分の義務として課せられていたものだったのである。

領主の城は、まず、第一に防衛施設である。領主や封臣のみならず、周辺に住むすべて民のものであり、緊急の場合の避難場所であったから、アンジェの城のように、今では庭に変わっているが、巨大な掘で囲まれていた。
自然の防衛が十分でない所は(丘や、切り立った岩の上にそびえる城を除いて、大抵の城は防衛が不十分なのだが)、このような広大な掘によって城塞を隔離していたのである。また、城壁の角は、攻められやすい死角になるので、アンジェの城のような円筒状の塔で補強されているのである。
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