フランスワインの歴史
ロワール古城歴史散歩

 

ブロワ城-建築史の博物館

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ロワール河沿いの丘の一端が高台になっている地形を利用し築かれたのがブロワ城である。 遠い昔から砦があったのを、13世紀にブロワ伯が堅固な城塞に仕立て上げた。 近世に入って、王権が確立されてこのあたりでは戦が起こることが予想されなくなり、 次第に城館に改築された。

従って、中世城塞の部分とその後のいろいろな時代に増改築された城館の部分とが、複雑に混じり合っている。
16世前半に造られたフランソワ1世棟には、華やかな彫刻で飾られた壮大な螺旋階段が外側に張り出している。初期ルネッサンス様式を代表する建物である。 昇り降りの機能だけでなく、観覧バルコニーの役を果たしていたから、中庭で催しものが行われる時には、 宮廷の貴婦人たちがここにずらりと並ん見物した。

 

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ブロワ城とジャンヌ・ダルク神話

1429年4月26日、ジャンヌ・ダルクはプロワ城の第一郭で勢揃いしてから初陣に出た。その時、王太子のもとへシャンパーニュを追われ、亡命して来ていたランスの大司教が、ジャンヌの旗印に祝福を与えた。以来この旗印の進む所、次々と奇跡のような勝利が訪れる。

それまで、軍の行く所には、必ず後ろから売春婦の大部隊がつき従うのが通常の光景だった。しかし、ジャンヌは全軍にお触れを出し、この悪習を止めさせた。
男の総大将が、こんな命令を出しても、当時戦いの主力は傭兵が担っていたから、傭兵たちはおそらく聞き入れなかったであろう。が、そこは神様のお告げを受けた純真無垢な少女のお触れと言うことで、皆が襟を正す気持ちになったのだろう、連敗を重ねていたフランス軍が、連勝に転じた。 ジャンヌ・ダルク神話の語る一つのエピソードである。

 

宗教戦争とカトリーヌ・ド・メディシス
時代は下って1588年。フランス国内は旧教徒(カトリック)と新教徒(ユグノー)の2派に分かれ、有力貴族の勢力争いとも絡まって、血なまぐさい戦乱や虐殺事件が繰り返されていた。
国王アンリ3世と母后カトリーヌ・ド・メディシスの政策は、新旧両教徒の和解を図って、そのバランスの上に王権を拡充しようということであった。

今や大きな経済力を持って王権の支えになっている商工市民階級の間に新教徒が多かった。それをむやみに弾圧することは、国王として得策ではないと考え、新教徒に信仰の自由を認め、国内に平和と繁栄を取り戻そうというのがアンリ3世と母后カトリーヌ・メディシスの基本方針であった。

しかし、ギーズ公アンリを首領とする旧教徒強硬派は、こんな国王の政策にまっこうから反対していた。ギーズ公は当時のフランスで勢威並ぶ者のいない大貴族であり、遠くカロリング王家の血を引いていると称して、王位さえ窺っていたのだ。
そうして、伝統的に旧教徒の勢力が強かったパリで、武力に訴えてアンリ3世を屈服させ、このブロワで三部会を召集させたのである。
パリでは既に「アンリ3世を廃位せよ」という声が盛んであった。「国中で、あまねく正しい信仰(旧教)を護持できないようでは、国王の資格がない」と言うわけである。

三部会も大部分はギーズ公の派閥であったから、ここで一挙にアンリ3世を廃位し、取敢えずは、旧教徒強硬派の王族であるブルボン枢機卿を国王に推戴する決議をさせようと、ギーズ公は画策していた。
宗教戦争の終結とブルボン王朝の始まり
パリから逃亡してブロワ移り住んだにアンリ3世は、城内の会議場でこれから三部会を開こうという朝、王の使いをギーズ公を呼びに行かせた。「相談があるから来てくれ」と言うものだった。周囲の者が危ぶんだのに、ギーズ公はせせら笑って王の部屋に入って行った。 彼は「向こう傷の殿」とアダ名されたほどの剛の者で、「あの腰抜け国王に何ができるか」とタカをくくっていたのだった。
が、前後左右からバラバラと出て来たのは剣を手にした刺客である。剣を使えば無双といわれていたギーズ公も、この時は丸腰だったから、結局、刺し殺された。

絶体絶命の窮地に立たされ、普段は弱気なアンリ3世も、非常手段を取らざるをえなかったのだった。キリスト教の習慣に反して、ギーズ公の死骸は焼かれ、その骨と灰はロワール川に投げ捨てられた。

その翌年、アンリ3世もまた刺客の凶刃に倒れ、ナヴァール王アンリを後継者として息を引きとる。 ブルボン朝初代王アンリ4世(在位1589~1610)の世が始まり、宗教戦争を収めた。時代は、徐々に絶対王政へと変わっていくのである。
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