フランスワインの歴史
ロワール古城歴史散歩

 

シャンボール城-フランス・ルネッサンス

Chambord

1494年、シヤルル8世がナポリ王国の継承権を主張してイタリアに出兵した。「イタリア戦争」と歴史で言われるものの始まりである。 次のルイ12世は祖母の血統からミラノ公国の継承権を主張し、北イタリアに進軍、ミラノ公国を征服したのだが、1513年のノヴァラの戦いで大敗し、撤退せざるをえなくなる。

次いで、1515年、20歳の若さで即位したフランソワ1世は、その年にイタリア遠征を敢行、マリニャーノの戦いで歴史的な大勝利を収めた。 しかし、オーストリアとスペインに君臨していたハプスブルク家の皇帝カール5世に、前を立ち塞がれる。この2人はその後も何回か戦いを交えるのだが、結局、最後の勝利はカール5世の手に帰した。
フランスは、この「イタリア戦争」と言われる戦いで、領土獲得の目的は全く果たすことができず、多大な国費と人命を失っただけだった。

しかし、文化の面においては、イタリアは「ルネッサンス」と言う文化の華の真っ盛りの時期であったから、シヤルル8世、ルイ12世、フランソワ1世と続いてイタリアに親征した王たちは皆、その先進文化の導入に努めた。建築、工芸、彫刻、絵画、造園などの専門家を多数フランスヘ連れ帰った

フランソワ1世はレオナルド・ダ・ヴインチ(人生最後の3年間をフランスで過ごす)を招聘し、その子アンリ2世は、1532年フィレンツェのメディチ家から、カトリーヌを妃に迎え、「フランス・ルネッサンス」の華を咲かせるのである。

百年戦争後、力を無くした領主たちが宮廷貴族として王のそばに常駐するようになった宮廷は、その貴族、文化人を数千人抱え、ロワール河沿いの城館を同じ所に2週間以上は滞在したためしがないと言われるほどの移動を繰り返した。

まさに「ロワール宮廷文化」と言う<フランス・ルネサンス文化>の大輪を咲かせたのである。それは、イタリア同様、芸術を愛し、繊細な詩心を持ちながら、限りなき残酷さ、快楽に淫しながら、深い信心、現代のモラルでは律することの出来ない歴史絵巻を展開した。

 

Francois 1

 

シヤンボール城の建設
初め、この地には12世紀ころに建てられたブロワ伯の狩猟用の城があった。それをフランソワ1世が取り壊し、1519年から現在の見るような大規模な城を、国家財政にお構いなく造り始め、その子アンリ2世に引き継がれ、1539年に完成している。

ロワール河の流れを城の近くまで引きこんで堀にするという雄大な構想を持っていたようだが、建築家たちの意見に従い、結局は支流のコソン川を利用することにしている。イタリアのルネッサンス文化がまだ十分消化されていない時期の建築で、装飾過剰で統一感がないようだが、それが反って、伽話の城のような親しみを感じさせる。

シャンボール城が完成して、ほぼ150年後にヴェルサイユ宮殿が完成し、宮廷は移動しなくなるが、そのルイ14世もヴェルサイユ宮殿が出来るまでは、9回も宮廷をシャンボール城に移し、盛大な饗宴を繰り広げている。

当時の新聞に、 「1670年10月9日に、両陛下は、王弟殿下並びに多くの廷臣、貴婦人を従えてシャンボールの城に到着、いつものように狩猟に興じられた。13日の夜、「国王付きの劇団」によリ喜劇が上演された」と言った記事が見える。

この「国王付きの劇団」と言うのはモリエール一座のことで、この日初演の喜劇とは「町人貴族」のことだった。
前年9月にも、モリエールはシャンボールの大広間で新作の「ブールソーニヤック氏」を披露している。 医者や貴族の虚飾を容赦なくはぎ取る痛烈な訊刺劇で、多くの観衆を沸かせたが、同時に敵も作った。 俳優であリ劇作家でもあったモリエールがなおも才筆をふるい得たのはルイ14世というパトロンの庇護があったためだと言われている。

「国家、それは私である」と豪語した太陽王ルイ14世が、このジャンボールをはじめロワール河畔の城々で、あるいはパリ近郊のベルサイユ新宮殿で、貴族らに取り囲まれ華やかな宮廷生活を謳歌している頃、フランス全土では重税に農民や職人たちが喘ぎ、各地で反乱があいついていた。後のフランス大革命の萌芽は、すでにこの頃から始まっていた。

 

Moliere
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