フランスワインの歴史
ロワール古城歴史散歩

 

シュノンソー城・・・カトリーヌ・ド・メディシス

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シュノンソー城は、ロワール川の支流シエール川にかかる橋のような形になっており、水に映る姿がいかにも優美で、「橋の上の城」と呼ばれ、門から庭園まで、爽やかなプラタナスの緑のトンネルの並木道がある。庭内に入って右に見える円塔は、マルク塔と呼ばれ、13世紀に築かれたマルク家の城塞のドンジョンである。

帯剣貴族の当時の例に漏れず、マルク家が財政難に陥り、この城と領地を新興の財産家で国王の財務官を務めるトーマ・ボイエに売り渡した。
彼は1513年にマルク塔だけを残して中世以来の城塞を取り壊し、ルネッサンス様式の城館を建て始めた。裕福な銀行家の娘だった妻のカトリーヌ・ブリソネの指図で殆どが作られた。

二人の死後、会計検査で、ボイエの徴収した税金の中から国王に納めるべきものが多額に残っていることが判明し、フランソワ1世がこの城を没収した。
城館の後ろに接して橋の上に3階建ての建物を付け加えたのが、カトリーヌ・ド・メディシスで、シュノンソー城が現在のような姿になったのである。

 

シュノンソー城

 

カトリーヌ・ド・メディシス
フランソワ1世(在位1494~1547)は、スペインのカール5世と激しく敵対していた。戦いの舞台はイタリアであったが、北方のフランドル地方の脅威もあり、 ローマ法王との関係強化の必要を感じ、時の法王クレメンテ7世がフィレンツェを支配したメディチ家出身であったところから、次男アンリの妃としてメディチ家から、カトリーヌ・ド・メディシスを迎えた。カトリーヌは、「偉大なる者」と称されたロレンツォの曽孫に当る。

カール5世のハプスブルク家は、ヨーロッパ最大の金融業者フッガー家に支えられていたから、もう一つの金融業者メディチ家との財政的関係強化の狙いもあったと思われる。

長男が若くして死んだので、フランソワ1世死後、弟のアンリが王位を継いだ。カトリーヌは王妃の座に着くことになったのである。 カトリーヌは、夫のアンリ2世が早死にするので、その後の王位を継ぐ、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后として、権力を振るうのであるが、彼女の後半生は、フランス革命に次ぐ大内乱「宗教戦争」を迎え、多難な舵とりをすることになるのである。

カトリーヌは、イタリアから、料理人、香水造り、占星術師まで連れて来た。メディチ家の料理人によって、フランス料理の基礎がつくられたとも言われている。氷菓子(シャーベット)を作る技術や食品を冷蔵する技術、ワインを冷やして飲むことなどがもたらされた。テーブル・マナーや乾杯の儀礼もカトリーヌがもたらしたものと言われている。

ロワールの城館やその庭を舞台として、大掛かりな祝宴、機会仕掛けの装置や花火を使ったスペクタルをもまたフランス宮廷にもたらした。 城館の堀の中から人魚の姿をした乙女たちが出現したかと思えば、庭園の茂みの中からセミヌードのニンフの姿をした乙女たちが出現するというような当時としては斬新な演出の饗宴を披露した。

なお、カトリーヌはいつも美しい女性の一群を召し抱えていて、これと思う男たちに接近させ、政敵を手なずけたり、寝物語に情報を収集させたりするのに使ったことでも知られている。

 

カトリーヌ・ド・メディシス
クロード・デュパン夫人
シュノンソー城は、その後、数人の人の手から手へと受け継がれた末、1733年にブルボン公が売りに出し、資産家で総徴税請負人をしていたクロード・デュパンが手に入れた。

デュパン夫人は美術、文芸、演劇、自然科学の愛好者で、名高いサロンを開き、この城にも当代一流の文化人たちを招いた。 思想家フォントネル、モンテスキュー、ヴオルテール、博物学者ビュツフォンなどもよくこの城に滞在した。

ジャン・ジャック・ルソーはデュパン夫人の秘書になり、彼女の息子の家庭教師をもつとめ、かの有名な教育論「エミール」を書いた。 そして「告白録」の中でこう述べている。
「この美しい場所でみな楽しく時を過ごした。ご馳走をたくさん食べ、私は修道士のように太ってしまった。私たちは音楽を演奏し、芝居の朗読をした。私は庭園の中のシェール河畔の道から題名を取って、<シルヴィーの道>という韻文のオペラを作曲した」と。
ルソーがシュノンソー城で満ち足りた日々を送ったありさまが偲ばれる。

大革命の時、おおかたの城は民衆に襲われ、家具調度などが持ち去られてしまったが、この城は、デュパン夫人がまわりの農民たちに敬愛されていたので略奪にあわなかった。館内に王朝時代からの家具や絵画が完全に残っているのはそのためである。

 

クロード・デュパン夫人
シュノンソーの城館としての新機能
シュノンソーは、城館として二つの新株軸を生み出した。その一つは、「真直ぐな階段」。その二は、「部屋の前の廊下」である。 現代の常識からは当然すぎる程当然なことだが、当時はそうではなかった。

それまで城の階段は「上りが時計回りになる螺旋階段」と決まっていた。その理由は敵の急襲を防ぐためである。真直ぐの階段だと一気に駆け上がられてしまう上に、上で防御する方は足を狙われて分が悪い。「上りが時計回りになる螺旋階段」だと、上の方は、螺旋の軸になっている柱を盾にして右手で自由に刀槍を振るえるが、下から攻める方は、螺旋の軸が邪魔になって右手を上手く使えないし、左半身が敵の攻撃に曝される。
城が戦闘の場ではなくなり、快適な居住性が求められるようになってからも、城には螺旋階段を設けるという伝統は守られていた。 しかし、「町人の娘」が初めてそれを打破して、「真直ぐな階段」を設けたのがシュノンソーである。以来、城館の階段は真直ぐで広いものが主流になって行く。

シュノンソーの階段はまだ実用本位のものであったが、もう少し時代が下ると、この種の階段は館内の豪華さを盛り上げるための装飾的な役割を兼ね備え、上り下りする人の豪華で優雅な姿を見せる1つの舞台ともなって行くのである。
また、中世の城には廊下がなく、部屋から部屋へと次々に通り抜けて、いちばん奥の部屋に達する方式だった。奇襲を防ぐにはこういう構造の方がいいからだ。そして、どの城でも、入って直ぐの部屋に衛兵が詰めていた。 この伝統はかなり後まで持ち越されたが、裏方としては非常に使い難い。 城主や奥方の部屋は必ずいちばん奥にあるので、来客をそこまで通すとなると途中の部屋がみな丸見えになってしまう。ボロ隠し、プライバシーの保持ができない。 例えば宴会の準備、料理の運び込み、後片付け、掃除などの時も不便極まりない。 そこで「町人の娘」だった奥方は、このシユノンソーに初めて廊下を設け、どの部屋にも別個に出入りできるようにした。

階段の場合と違い、この伝統はずっと後世まで改められなかった。この城より150年ほど後に出来たヴエルサイユ宮殿などもそうだが、相変わらず部屋から部屋へと通り抜けて行く方式になっている。警備上の配慮と王の威厳を敢えて見せるためだったようだ。
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