フランスワインの歴史
シャンパーニュ・パリ の 歴史

 

中世のシャンパーニュの大市

中世の経済発展に伴う遠隔地交易の姿を理解する上で、忘れることの出来ないのは、シャンパーニュの大市である。
シャンパン(発泡酒)の産地が少し北寄りで、ランス、エペルネイ、シャロンという3つの町を結ぶ三角形の中にあるのに対して、中世史に名高いシャンパーニュの大市が開かれたのは南寄りの、ラニー、プロバン、トロワ、バール・シュル・オープという4つの町である。いずれもセーヌ川、またはその支流のマルヌ川やオーブ川の川筋に位置している。

シャンパーニュ地方は、地理的に、中世のヨーロッパ経済圏のちょうど真ん中に位置していた。また川が商品輸送の最大の手段だった当時としては、四方からいろいろな川筋が集まっているシャンパーニュ地方は、遠隔地からやって来る商人にとって非常に便利な交易場所だった。

ドイツ方面とはライン川とその支流のモーゼル川で、フランドル、ネーデルランド、北海方面とはムーズ川で、イギリス方面とはセーヌ川で、フランス中西部とはロワール川で、フランス南部、地中海方面とはローヌ川の支流ソーヌ川で結ばれている。最寄りの川筋から大市の場所までは、それほど長くない距離を馬やロバや車で運べばよかったのである。 北イタリアの商人は、アルプスの峠道を越えた後、湖水や川の船などを利用して、シャンパーニュ地方にやって来た。

 

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大市は、順次場所を変えて、1回につき1ヶ月間ほど開かれた。それが年に6回(プロバンとトロワでは2回)あったから、それほど間隔を開けないで、4つの町のどこかで年中大市が開かれていることになり、商人は荷物をまとめて次の場所に移動しては、取引を続けることができた。 商人同士の取引が主で、売買される商品の種類も量も多く、大賑わいするだけの需要があった。

大市を管理していたのはシャンパーニュ伯の役人で、毎朝鐘の音とともに始まり、毎夕鐘の音とともに終わった。夜間や場外での取引は厳禁だった。市の立つ場所は、役人が見回って、犯罪防止と物を売っている商人から市場税を徴収した。

この大市には、一般人も大勢、何かいい物や珍しい物を探しがてら、その賑わいを楽しみに、遠近から集まって来た。なにしろ娯楽が極端に乏しかった時代のことである。人出を当てこんで、猿回し、熊使い、楽師その他さまぎまの大道芸人、占い師、夜の女、すり、かっぱらい、乞食なども集まってきた。

大市は13世紀の終わりには衰退の様相があらわとなった。 戦争や、以前より重い租税、通商路の変動などが衰退の原因として指摘されるが、より本質的なのは、商人が次第に定着化して商会を組織し、信用技術の発展に支えられて、西ヨーロッパの主要都市に支店を設けるようになると、わざわざ大市にでかけて取引をする必要がなくなったことである

 

シャンパーニュの大市における取引と金融
商人たちは、それぞれの開催期間の始めの数日間を売場の確保や、商品の展示などの準備に当てた。また最後の1週間は取引はせず、もっぱら代金の決済や、信用取引への振替あるいは他の場所で作った負債の支払いなどの整理を行った。
取引の対象となった商品は、羅紗など高価な上質の毛織物があったから、野盗の類の略奪から商品を守り活発な取引が行なえるように、シャンバーニュ伯のみならず、フランドル伯、そしてフランス国王などの領域権力が治安に配慮し安全護送制度で保護した。 (大市での取引からもたらされる利益を財源としてあてこんでいたこともある)

イタリア商人は手形や信用状などの為替技術を、ヨーロッパ各地から集まった商人に伝授し、その普及に大きく貢献している。まさしくシャンバーニュ大市は商取引、金融操作の「学校」の役割も果たしたのである。

取引に関わる紛争は大市の領主法廷に持ち込まれた。大市の規模と性格から、その法廷はヨーロッパの最高商事裁判所とでもいうべき存在であった。

中世の契約書
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