フランスワインの歴史
シャンパーニュ・パリ の 歴史

 

都市の誕生

商業は、農民の作った生産物を担いで歩く行商から始まった。やがて、教会のある場所や船着場などに、商人・手工業者の集落が生まれ、しだいに人口を増やしていった。12世紀後半になると、集落は城壁に囲まれた都市にまで成長する。
14世紀初頭には、都市と言える人口1万以上の集落はフランス全国で約25を数える。その多くはパリ、ルーアン、プールジュなど北部にあったが、南部にもトウールーズ、モンペリエ、ボルドーなどの大都市が生まれた。

中世都市の誕生は、新しい社会的・政治的・文化的な空間の出現を意味している。つまり、 都市の住民の中から、商売によって財産を築き、領主や農民と違ったタイプの社会層が生まれた。それを「ブルジョワ」(町の人)と言うようになった。

商工業で成り立っている都市にとって、何よりも欲しいのは自由な活動で、自由な活動なくして経済の繁栄はないと言う原理は昔も今も変わりない。そこで都市は領主に協力することによって、出来るだけ領主の束縛から逃れ、自由で広範囲な経済活動が出来るよう計った。
領主への援助の主なものは、貢納金と兵力の提供である。都市は自衛のため市民権を持っている男子は自費で武装を整えておく制度になっているところが多かったし、傭兵も抱えていたから、必要あらば兵力を提供する事が出来た。それ故、領主が敵対する諸侯と戦う時には、都市は応分の援助を惜しまなかった。従って、領主にとっても、領内の都市の繁栄は、自らの繁栄をも意味していた。

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都市の住民は、同業者同士の相互扶助のため組合を結成した。13世紀のパリではその数は約100にものぼる。これらはそれぞれが特定の守護聖人をもつ宗教団体でもあり、同業者の増加を制限する閉鎖的集団でもあった。また同業組合の間の関係も平等ではなく、有力組合の大商人は市内に豪壮な館をつくり、市政の役職を独占した。
都市の経済活動にとっての障害は、その地域の戦乱や領主の恣意的な課税である。この課税には、住民の抵抗が常で、領主との緊張関係を生むのだが、都市に財力のある寡頭商人の支配する秩序ができるにつれて、領主との間に妥協が成立する余地が生じ、定期的な納税と多額な貸付金と引き換えに、都市は行政、課税、裁判の自治特権を獲得していく。所謂「自由都市」と言われるものである。

こうして13世紀に各地に生まれた中世都市は、住民の集団誓約を基礎とする団体であり、寡頭商人が市政を独占する階層的な社会だった。やがて農村から有力な領主も都市に移住し、領邦君主の宮廷も領内の都市を巡回移動するようになる。 政治権力の所在地は、壁と掘をめぐらしてそれ自体が要塞化した都市となつた。
宗教活動の中心も、畑に接する農村の修道院から都市の聖堂に移った。とくに有力市民の寄進によって建てられた司教座都市の大聖堂(カテドラル)は、天にそびえるアーチ状の天井と薔薇窓のステンドグラスがロマネスク建築の隘路であった採光の問題を解決して、祈る場所と同時に市民が話しあう場所ともなった。このゴシック様式はイルードゥーフランスで生まれ、ヨーロッパ各地に普及した。

 

中世の都市-パリ
パリはガロ・ローマ時代にはルテティアと呼ばれて交通の要衝だったが、6世紀になると衰退した。
ゲルマン国家の王は首都を決めずに居所を移動するのが常であり、カペー朝の初期の王も、パリよりもロワール河に沿うオルレアンをむしろ好んだからだ。

パリの発展は12世紀から始まる。その理由は、パリ盆地がフランス随一の穀物生産地域となったこともあるが、当時の西欧経済の中心地である北イタリア諸都市とフランドル地方とを定期市で結んだシャンバーニュの市場町(トロワ、プロヴァンなど)と、セーヌ川の水路を通じて結びついていたことだ。
また、市内のセーヌ左岸のサント・ジュヌヴィエーヴの丘に建つ大学の名声が、ヨーロッパ各地から学生をひきつけたし、ノートルダム大聖堂の建立も、ルイ9世の時代にほぼ完成した。ルイ9世治下の13世紀のパリはヨーロッパの経済、政治、文化の中心となる条件を兼ね備えたのである。
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