フランスワインの歴史
シャンパーニュ・パリ の 歴史

 

初代 フランス王―クローヴィス

451年、北ガリアに侵入して来たハンガリーに本拠を持つフン族の首領アッチラとの、シャンパーニュのシャロンに於ける戦いで、ローマ軍と共に戦い、激戦の末、勝利したフランク族の首領クロヴィスは、この戦いで一挙に頭角を現し、フランク諸部族を統一し、ローマの残軍も配下に収め、北部ガリアを完全に支配下に治めフランク王国を成立させる。

後に、ガリア南西部を支配していた西ゴート王国をピレネー山脈の南に追いやり、東南部のブルグント王国をも支配下に治め、ほぼフランスの主要地域を支配するようになるので、歴史は、クロヴィスを初代フランス王と言う。「フランス」という名称は、フランク王国に由来する。

 

何故、フランク族がガリアの統一に成功したのだろうか?

ゲルマン人の王たちは皆、その軍事力にものを言わせて領域支配を拡げようしていた。しかし、移住したゲルマン人は既存のガロ・ローマ人の住民に対して5%程度の数に過ぎなかったから、住民全体に支配を拡げるには、統治の知識と経験を持つガロ・ローマ貴族の力を借りねばならない必要にも迫られていた。
特に、主要都市の司教職を占めていたのはこの貴族だったし、教会の住民への影響力は絶大だったから、ゲルマン人の王たちにとっては、キリスト教との関係が重要な意味を持っていた。

一方、ローマ教会にとっても問題があった。つまり、ローマ司教を頂点とする組織に出来上がったローマ教会は、東ローマ皇帝を首長とするコンスタンティノープルの教会と首位権をめぐって対立していたのだが、ローマ教会は東ローマと違って、軍事的な権力は全く持っていなかったから、有力な政治権力者との結びつきを求めていたのである。
このゲルマンの王とローマ教会との利害の結びつきが、496年、クロヴイスのランスの大司教・聖レミ(レミギウス)の洗礼である。

キリスト教に改宗したクロヴィスは、これによって、ゲルマンの部族の王の中で、唯一のローマン・カトリックの王となった。教会の権威と貴族の後ろ楯を得たクロヴィスは、異端・異教徒を退治すると言う錦の御旗を手にし、他部族の征服を容易にすすめ、ガリアの統一を図ることができたのである。

 

 

クロヴィスのガリア統一時期のキリスト教
西ヨーロッパのローマン・カトリックは、前世紀の364年、アタナシウス派とアリウス派との教会内部の教義論争に終止符が打たれ、アタナシウス派(三位一体説)が正統なローマ教会の教義になるのだが、それ以前はアリウス派が優勢で、ローマ化の早かったブルグント王国や、西ゴート王国はアリウス派の教義を受け入れていた。

従って、5世紀末のローマ教会から見れば、ブルグント王国や、西ゴート王国は異端のキリスト教徒の国であったのである。これに対して、ローマ化の遅れていたフランク王国は、キリスト教徒でない白紙の異教徒の状態だった。
この教権と俗権の結びつきが、その後のフランスの国としての形の基になる。つまり、聖別された神聖な王を戴く、正統カトリック教徒のフランス王国である。
シャンパーニュのランスでの聖別式・載冠式が歴代のフランス王が王位に付く際の象徴的儀式になっていく基がここにあるのである。

クロヴィス王の後の名王と言われるダゴベルト1世がランスの司教に寄贈した畑が、ドン・ペリニヨンの教会の西にある。最北の地のシャンパーニュのワイン造りは、この時期既に定着していたようである
325年のニカエア公会議
アリウスは、神の子イエス・キリストと父なる神は異なる本質を持つと考えていた。キリストは人間と同じようにつくられた存在だが、人間よりすぐれたものである。しかし神のように永遠なる存在ではないと主張した。

これに対してアタナシオスは、父と子と聖霊が同質であるとする三位一体論を説いた。
ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(在位310~337)の支持をうるために両派は競い合ったが、皇帝に対して影響力をもっていたのは、始めはアリウス派の方だった。 アタナシオスの追放生活に終止符が打たれたのは、364年である。
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