フランスワインの歴史
シャンパーニュ・パリ の 歴史

 

カール(シャルルマーニュ)大帝

 

8世紀始め、メロヴイング王朝の各地の宮廷の最高実力者が就くことになっている宮宰職を独占するまでになったカロリング家は、北東部の有力な豪族である。 当時、アラビア半島から北アフリカを席巻したイスラム教徒は、地中海の海上交易を支配しただけでなく、更に、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵入し、西ゴート王国を滅ぼし、地中海世界の一大勢力として君臨していた。

粗野なゲルマンに壊されることもなく、キリスト教のたがにもはめられない古代ローマの文化・文明を様々な形で踏襲したのはこのイスラム勢力で、後の十字軍の戦いで、欧州諸国は、その文化・文明に強い影響を受けることになるのだが、この時期のガリアはこのイスラム勢力に度々襲われていた。

ピレネー山脈を越え、アキテーヌにまで侵入して来たイスラム勢力に、正面から立ち向かったのが、宮宰シャルル・マルテル(688-741)である。
フランク貴族を糾合してトゥール・ポワティエの戦い(732)で、イスラム教徒を敗走させ、一挙に威信を高めた。 更にマルテルの子のピピンは、イタリアに遠征してローマ教皇をランゴバルド王国の圧力からも救った。

そして、751年、すっかり実力を失っていたメロヴィング朝を廃してカロリング朝を開き、ピピン3世(在位751~768)として即位した。 ピピンは即位を正当化するために、カトリックの「塗油の儀礼」を取入れたが、カロリング王家と教会との結びつきは、ピピンの子のシャルルマーニュ(カール大帝、在位768~814)の時に更に強まった。

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シャルルマーニュは、毎年のように各地に遠征し、フランク王国の支配領域を拡げた。東はエルベ川に達するゲルマニア、南はイタリアの北半分にまでおよぶ広大な地域を支配下に治めた。そして、800年末、ローマにおいて教皇レオ3世の手から「ローマ皇帝」の帝冠を受けたのある。
この戴冠は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に対抗するため、有力な政治的後盾を求めていたローマ教皇にとっても、自らを利するものだった。

シャルルマーニュは、ローマ帝国の権威を身に帯びることを望み、「皇帝」の称号を得たが、「フランク人とロンバルド人の王」の称号も使い続け、国土を家産視するゲルマン王家伝統の考えを捨てなかった。

この戴冠の歴史的意義は、地中海を内海とする古代ローマ世界帝国の崩壊後、コンスタンティノープルを中心とするビザンツ帝国圏と、中東から北アフリカ・イベリア半島までを制圧したイスラム勢力圏の<2大地域世界>と並んで、ヨーロッパ大陸の西に<ヨーロッパ地域世界>が成立したことを象徴的に示している

 

シャルマーニュの統治体制とその後の「ヴェルダン条約」
ビザンツ帝国が皇帝教皐主義として、また、イスラム世界が神政政治として政権と教権が一体化しているのに対して、西ヨーロッパ世界では、ローマ帝国の普遍的な「帝国」理念が、ローマ教会に継承されながらも、教会の宗教権威と王の世俗権力とがそれぞれ自立した共生関係にあって、性格を異にする。

カロリング帝国は広大な領域を支配したが、メロヴィング王国と同様、それを統治する機構は極めて弱かった。 アーヘンに宮廷が置かれたが、しっかりした組織に出来上がっているローマ教会の司教座組織を行政に活用せざるを得なかった。
また、少なくとも300人にのぼる地方有力者が「伯」(コント)と呼ばれる地方行政官に任命されたが、彼らは役職の代償で得た領地を世襲化して独立する傾向にあった。

統治体制のこの性格のため、シャルルマーニュ死後、孫たちの代に、それぞれが地方の有力者たちを基盤にして、分割相続をめぐて内乱が起きた。そして、843年の「ヴェルダン条約」で帝国は3分割されるのである。
長男ロタールが現在の独仏にまたがる帯状の中央部とイタリア(ロタールの国)を、
次男のルートヴィヒは東部(東フランク王国)を、
末子のシャルルは西部(西フランク王国)を得た。

 

ロタールが「皇帝」の称号を得たが、有力貴族や司教の支持を得た者が帝位に就くことになっていたので、この3分割によって皇帝の権威は急速に低下した。 西フランクからは、シャルル2世(禿頭王、在位843~877)以後、「皇帝」に選ばれた者はいない。

「ヴェルダン条約」の後も、王が死ぬ度に再配分をめぐつて内乱が起こり、東西フランク王国に挟まれた「ロタールの国」の北部は、東フランクの領有となつた。

こうして生まれた配分が、地理的には現在のフランス・ドイツ・イタリア3国の原型である。

フランク帝国の分割
シャルルマーニュ(カール大帝)の業績
「ロランの歌」の武勲詩はシャルルマーニュ(カール大帝)の業績を語ったもの、英国の「アーサー王物語」と共に有名であるが、大帝は戦いに明け暮れたが軍事外交だけでなく、内政にも非凡な能力を発揮した。

サリカ法典を整備し、行政・裁判 制度の改革を行なった。
著名な学者(イギリス人の修道士アルクイン等が有名)をヨーロッパ各地から招き、貴族の子息を集めて教育し、カロリング・ルネッサンスと呼ばれる文化の華を咲かせた。 また、王権の財政的基礎を支え、社会経済に活力を与えるという見地から、ぶどう栽培・ワイン造りを奨励した。
各地の教会に土地を寄贈し、教会財政を支えさせると共に、栽培・醸造技術を向上させた。各地の教会、ことに修道院を中心に銘醸ワインが育って行く萌芽を造った。

大帝の名前を今日まで残しているのは、「コルトン・シャルルマーニュ」のワインである。
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