フランスワインの歴史
シャンパーニュ・パリ の 歴史

 

ルイ14世とヴェルサイユ宮殿

ルイ14世は4歳で即位したので母后が摂政となり、宰相をマザラン枢機卿が勤めていたが、1661年、マザランの死と共に、ルイ14世は宰相制を廃止して、王自身が直接政治への関与を決定した。
祝典の衣装に輝く太陽がデザインされていたことから「太陽王」と呼ばれる。それは危機と混乱が終わった、平和の時代のシンボルでもあった。フランスは、絶対王政の下で未曾有の繁栄を迎え、ヴエルサイユ宮殿を舞台に、フランス革命までヨーロッパの政治・文化の中心になる。

「お腹もすかず食べる必要もなくても、食欲がないということは彼の生涯にはなかった。まったく、ポタージュに最初に匙をつけるやいなや、つねに食欲が働きはじめ、朝な夕なにあまりに見事に、あまりにきちんと、しかもあまりに一定の調子で食べたので、誰もが、そういう彼にいつも驚いていた」 (サン・シモン)。

この健嘆ぶりを示した王、ルイ14世は40余年という長い治世を精力的に続けさせたエネルギーの持ち主だが、ただの大食漢ではなく、「教養のある食いしん坊」だったのである。

ひとりで食べる時も、300人以上の貴族と従僕が演じる大宴会の時も、日常生活総てが儀式で、人がそれを見学するのを許され、王が優雅に卵を割ったりするのを感嘆して見て、それが上流階級やパリの話題になったと言われている。

王は独創的で洗練された料理を厨房係に命じた。カペー朝の始祖フィリップ6世の時代から、名料理人タイユヴァンもいたし、カトリーヌ・ド・メディシスがフィレンツェから嫁いで来て、イタリアの料理の影響を受けたりしたが、「フランス風」の新しい料理が出現するのはルイ14世の時代からである。 贅沢の象徴だった東洋の香辛料の濫用が減り、今日フランス料理の精粋ともいえる肝心要のソースのプロトタイプが生まれたのもこの時期で、バターを多く使うようになって、それまでの酸味が強かったソースが脂っこくなるようになった。

ルイ14世-太陽王

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ヴエルサイユの食宴は儀式だから、ワインを飲むのもひと仕事だった。「王様にお飲み物を!」の掛け声を合図に、大膳職、酌係などの貴族が行列して金製の盆にワインと水を入れたクリスタルカラフを載せてうやうやしく運び、金めっきをした器で別の貴族が毒味をして、酌係の貴族がふかぶかとお辞儀をして注ぐ

ワインは食前の一杯、食中のワイン、食後のワインと出された。 食前食後酒はリキュールもあったし、氷(当時の貴重品)を入れて冷やすこともあったが、水で割っても飲んだ。

フランス歴代の王の宮廷には各地の様々なワインが持ち込まれていたが、アンリ4世以前はロワールに宮廷を置く事が多かったから、ロワールものが主だった。しかし、ルイ14世の侍医ファゴンが、痔を患う王に白ワイン は毒だからブルゴーニュのニュイの赤ワインを飲むようにと薦めて以来、宮廷では皆が王に倣った。 上流階級も宮廷に追随したから、以前は見向きもされなかったブルゴーニュのニュイのワインは、一挙にその地位を獲得した。英国の宮廷と貴族が愛飲していたボルドーは、まだ、ルイ14世の宮廷には姿を見せていない。

 

ルイ14世の宮廷
1682年ヴェルサイユ宮殿が完成し、王がそこに定住するようになって、それまでの王宮の観念が全く変わった。 王宮は単に王の居所、中央政府の執務室ではなく、王の権威を内外に誇示する一大イベント会場となったのである。

王の起床から就寝まで、接見・宴会から着替えに至るまで、1日の王の日課がすべて厳密な儀礼を伴って運営され、数千人の貴族を序列によってそれに参加させることで、彼らを支配した。 儀式・宴会・散策にも序列をきめて参加させた。2~3百人の朝の引見、50人の就寝前の引見にあずかれるかどうかは、貴族にとって大問題だった。何故ならば、ヴェルサイユの宮廷は総て王を中心にして動いており、王との距離が貴族の階位の規準となった。 部屋係、衣装係、食事係、厩舎職、狩猟職など大小無数の職種が定められ、それぞれの仕事の長官は最高の貴族だった。

1687年当時、宮廷内の仕事だけで1800人の貴族とその従者がいたし、諸階層の下僕を加えると7~8千人がヴェルサイュに寄宿していた。
王権に挑むような気概と力を持つ貴族はもはや無く、いまや一族郎党を捨ててヴェルサイユに居をかまえ、毎日伺候して王の機嫌を伺い、王が気前よくばら撒いてくれる恩恵に預かった。

華麗に飾りたてられた宮廷では、盛大な祝祭典、夜会、宴会、音楽会、舞踏会、芝居が常時催されていたから、宮廷生活は外見こそ華やかで魅力的だった。 しかし、その中身は、貴族は牙を抜かれ、寄生的存在となり、猟官と猟色、中傷と陰謀が渦まく中で、「金びかの奴隷生活」に甘んじていたのである。 重要なことは、国家そのものが、王宮の私室のなかに密閉され、硬直化したことだった。
ヴェルサイユ宮殿の建設
ルイ14世が、宮廷をパリから移す決心をし、選んだのがヴェルサイユで、先王の狩猟場の休憩所。言ってみれば、不毛の地だった。そこを敢えて選んだのは自然に挑戦して改造してこそ、自己の威光を示せる絶好の手段と考えたのであろう。

周囲の丘を切り崩し、運河を掘り、大造園を創成する大開発工事を行なった。そうして造りあげたのが、巨大な十字形運河を中心にして、列をなす巨木と刈りこんだ生垣とが美しい幾何学模様を描く全く人工的な壮大な庭園と宮殿である。
最大の難点は水利で、庭園に不可欠な噴水の建設が無理だった。そのため8キロ離れたセーヌ河から水を引く大土木工事が行なわれ、セーヌ河岸には直径12メートルの水車を14基も据えたマルリの揚水機が設置された。

こうしたヴエルサイユ宮殿の大工事は1661年から始まり74年には一応終了したが、その後も改修と増築が続き40年もかかって王の晩年にようやく完成している。 総工事費は7,000万ルーヴルという巨額なものであった。 もともと財政難だったブルボン王朝の財政は、先王の聡明な宰相リシュリューと摂政時代の老檜な宰相マザランの手腕によって、一時は持ちなおしていた。

しかし、フランスの威光を示すために対外戦争をいとわなかっったルイ14世の戦費と寄生貴族に対する年金等の支払いに加え、この宮殿建設は王朝財政にずっしりと重い負担となってのしかかった。
宮殿の維持費と宮廷の諸行事にルイ14世は湯水のごとく金を使ったから、国家財政は文字通り破産寸前の状態であった。 ルイ14世の世紀は「外観は華やかであるが中味は貧乏な世紀」だったのである。

ヴェルサイユ宮殿
ヴェルサイユ建設時の財政収入とコルベール
破産寸前のルイ14世の国家財政をやりくりをしたのが、宰相マザランの秘蔵っ子、コルベールだった。

王朝の本来の財政を支えるのは直接税だったが、最大の負担者であってよいはずの僧侶・貴族・官職を持つ富裕なブルジョワは免除されていたのである。 直接税ではとても王朝財政、ことに増大する戦費をまかなえなかったから、リシュリュー、マザラン、コルベールも、臨時徴収(軍隊糧株費などの名目)や強制借入れ・公債の発行、官職売買、間接税の新設、都市から借入れ、宝くじの発行までしてやりくりをした。
重要なのは間接税で、 塩税、消費税、交易税を始め、織物売上税、ワイン消費税などの業種個別税に加え、印紙税や登録税なども新設した。

この間接税は、税収入の中で最も重要だったが、問題があった。 それは、その徴収方法である。
徴税請負人は王に税を前払いをして、それに徴収手数料を上積み(3割からひどいときは同額)して、軍隊と裁判所の助けを借りて徴収した。 予納額は巨額だったから、大商人か金融業者、大商人のグループでなければ請け負えなかったが、それが税制の公平を損なっただけでなく、請負人が巨利を博すことになった。
徴税請負人がいかに人民のえんさの的になっていたかは、革命時に、ほとんどが処刑されたことでわかる。

 

コルベール (1619~83)

1661年財務総監となり、宮殿施設総監、工芸総監、海軍長官などを次々に兼任、外務・陸軍以外のすべての職務を一身にになって、約20年にわたりフランス国政を担当。 名門貴族を排して新興階層出身者に国務をゆだねるという、絶対王政期の人事を体現した人物で、それにふさわしい能力の持ち主だった。

コルベール主義とよばれる重商主義を推進した。 保護貿易を徹底、輸出産業の振興につとめ、同時に各種の産業をギルドに組織して統制した。積極的な海運・貿易の振興や植民地政策は、オランダやイギリスとの競争を激化させ、戦争の要因ともなった。
国家による文化政策としてアカデミーを創設した。これも、総てを国家の監視の下に、保護と同時に規制する彼の政策で、近代官僚制の基礎ともなった。
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