フランスワインの歴史
シャンパーニュ・パリ の 歴史

 

ナポレオン と タレーラン そして シャプタル

ナポレオンは、フランス革命の精神とイデオロギーをヨーロッパに広げた軍事的天才、世紀の大英雄として語られることもあるが、10万単位の戦死者を招いた戦争指導者だから、”人喰い鬼”として罵られることもある。

しかし、フランス革命後の混乱期に登場して、新時代の基盤になる諸制度を打ち立てたことも事実である。それは、民法典の制定であり、司法・行政改革と官僚機構の整備、会計検査院、大学制度、フランス銀行とジェルミナール・フラン金貨、壮大な各種の土木建築公共事業、農業と工業の産業改革政策、そしてレジオンドヌール勲章である。

「革命の申し子」を自認する彼は、フランス革命の理想とイデオロギーを現実の制度として定着させた実務家であり、その理想の旗印の下に、封建制度との闘いをヨーロッパ中に拡散させた”革命の輸出家”であったことは確かである。

このナポレオンの陰で活躍したの2人の人物がいる。一人は外交で、もう1人は内政で。共にナポレオンの独裁が始まると袂を分ち野に下るが、ナポレオン失脚後、返り咲いて、激動する時代のフランスに多大な貢献をした異色な実務家である。

それは、タレーランとシャプタルである。

「ナポレオンの愛飲したワインはシヤンベルタン」とよく言われ、陣中でもこれを欠かさなかったと伝えられている。ワインの性格が英雄の飲むワインにふさわしいということからだろうか、シヤンベルタンはナポレオンの名と結びついて名声が世界に拡がった。 しかし、この伝説には異論がって、「ナポレオンはワインを水で割って飲んでいたし、だいいち彼の進軍は早すぎたからワインの荷が追いつかず、いつも地酒でがまんしたはず」だと書かれたものもある。

歴史的に確かなことは、フランス革命によって始まった修道院の銘醸地が国家によって接収され、国有財産になり競売に掛けられていくのだが、ナポレオンは士官の時、「国家によって収用されることになる」ことを修道院に告げる役目を担っていたことである。

Napoleon

 

タレーラン (Charles Maurice de Talleyrand-Perigord 1754~1838)
タレーランは、 革命期からナポレオン帝政期を通じて活躍した名門貴族出の政治家であり外交官である。
タレーランの基本的な外交戦略は、ヨーロッパ列強の勢力均衡を計ろうとするもので、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大には反対した。
そのため、失脚させられるが帝政崩壊後返り咲き、敗戦国フランス外交に敏腕を振るう。

議員時代、司教から選出された議員でありながら、教会財産の国有化という反カトリック教会的な政策を推進してローマ教皇から破門されたりしていて、変節漢と見なされるが、タレーランは統治者の政治的傾向とは無関係に行政を担当する近代的官僚の典型と言われ、豊かな教養と優雅な礼儀作法、巧みな外交手腕によって外交官の模範とも見なされている。(メートル法の制定を国民議会に提案したのも彼である)

ナポレオン支配の崩壊に伴い、各国の領土確定の必要から、1814年9月開かれた「ウィーン会議」は、「会議は踊る、されど会議は 進まず」の名文句が生まれ、連日駆け引きの饗宴が行われ、最終締結まで2年にも及んだ。この会議には15名の王、200名の大公、126名の外交官が参加した。
メテルニッヒやウエリントン公など各国の元首を手玉に取り、連合国間の利害の対立を利用して、敗戦国フランスに有利な決定を獲得したのが外交官タレーランである。(映画化された「会議は踊る」は大ヒットした)

タレーランは美食外交の元祖と言われ、歴史的料理人アントナン・カレムをウィーンに引き連れ、欧州列強の貴紳淑女を豪華な美食に酔わせた。その引きたて役にはシャンパンが使われた。(このウィーン会議以降、 ロシアを始め欧州列強の王室にシャンパンは一挙に販路を広げて行った)
同時に、当時、ロンドンの名士の間で名声を得ていた<オー・ブリオン>のオーナーでもあったから、そのワインも供されたことは間違いない。 Talleyrand
シャンパン
ポンパドゥール夫人が「飲んで女性の美しさを損なわないのは、シャンパンだけ」と言ったと伝えられるが、シャンパンは、ルイ15世の摂政時代(1715~23)に宮廷に登場する。
18世紀は、貴族や金持ちブルジョワに、芸術家、文人、学者を加え、絢爛とロココの華を咲かせた時代で、美食の時代でもあった。当時の宮廷や貴婦人のサロンの食卓を彩り、人気の的だったのが泡立つワイン、シャンパンで、勢いよく栓を飛ばし、ご婦人のむき出しの肩に泡を吹き掛ける楽しみを見つけたのだった。

いずれにしても、シャンパーニュ地方が発泡ワインの生産を軌道にのせ、市場に出して来るのは、18世紀初頭のルイ15世の摂政時代である。 18世紀末になっても、発泡性のシャンパンの産出は100万本程度で、通常の非発泡性ワインの産出量のまだ10分の1で、総て甘口。辛口のシャンパンはまだ造られていない。

プロイセンのフリードリヒ2世、ロシアのエカテリーナ2世、イギリス最初の首相ウォルポールといった偉人が愛好し、高名なヴォルテールやディドロが称えようと、それは所詮稀少で、一般市民にとっては高嶺の華だった。 (当時のパリでの売値1本5~8リーブルと言う価格は、熟練した職人の4日分の賃金に相当) シャンパンは、当時特権階級が浮かれ騒ぐためといって悪ければ、一握りの選ばれた者が楽しむための酒だったと言える。
ドン・ペリニヨン (Dom Pierre Pérignon, 1638~1715)
シャンパンを創ったのが、清貧、実直であるべき修道僧、ドン・ペリニョンだったとされている。
そのため、現在世界最大のシャンパン・メーカー・モエ・シャンドン社が、特醸物に「ドン・.ペリニョン」と名付けている。 世界の大金持ちやスノビッシユな人たちは、これを飲むのを鼻にかけている(バブル期の銀座でもよく見られた)。
かのジェームズ・ボンドも美女とドン・ペリニョンを売り物にしているし、このシャンパンを飲む情景を描く小説もあとをたたない。しかし、ドン・ペリニョンだけが極上のシャンパンではないし、ドン・ペリニョン伝説も必ずしも総てが真実ではない。

中世では、シャンパーニュ地方のワインを「川のワイン」と呼んで高い評判を呼んでいた。イル・ド・フランス地方の「フランスのワイン」と区別するためだった。 「川のワイン」つまりアイなどマルヌ川沿いの丘陵で産するワインは、フランソワ1世が戯れに自らを「アイとゴネスの王」と称していたほどである。
「山のワイン」つまりランス周辺の丘陵の斜面で、ピノ・ノワール種などから造られる赤ワインも次第に評価されるようになり、ルイ14世の宮廷ではブルゴーニュのニュイの赤ワインと競う程にもなった。
このワインは、発泡性のワインではない。(当時の赤ワインは、赤ワイン用の赤か黒皮ぶどうと、白ぶどうとを混醸した色の薄いもので、今日のような濃い赤ワインではなかった)

シャンパーニュ地方は、フランスでもワイン産地の北限に近い寒冷地方だから、秋遅くに収穫したぶどうを仕込むと、初冬の寒さのためワイン酵母が休眠し、いったん発酵を中止し、春になると再び発酵を始めることがあった。これは秋に瓶詰めされたワインが、再発酵によって発泡性を帯びることを意味していた。

この現象に気が付いている人がいた。ドン・ペリニョンである。彼は、スペインから来た巡礼僧が携帯瓶にコルク栓を使っているのに目をつけ、これを活用して「ワインに泡を閉じこめた」と言うのが通説になっている。(「世界最古の発泡性ワイン」はラングドックのAOC・Limoux(リムー)で、ベネディクト派のSt-Hilaire(サン・ティレール)修道院のカーヴで、コルクで閉めた瓶の中でワインが発酵し、泡だっていることを修道士が偶然発見したと言う。シャンパーニュのドン・ペリニオン師の伝説よりも1世紀も早い発見である。)

ドン・ペリニョンがエルベネ近郊のベネディクト大修道院の酒蔵係になったのは1668年で、盲目であったので、嗅覚と味覚が一層鋭敏であった。異なる畑や異なる年のワインをブレンドして洗練されたものに仕立てあげたことは確かである。また、今日のように透明で美しい白ワインを造りあげたのも、彼の功績である。(当時の技術では赤か黒い果皮のぶどうを使うと、どうしてもワインに色がついた)

 

ドン・ペリニョン
シャプタル (Jean-Antoine CHAPTAL 1756~1832)
Chaptal

シャプタルは、百科全書派の系譜を引く、農業に大きな影響を与えた化学者だが、革命をうまく生きのび、後にナポレオンに登用されて内相になる。
内相として、中央と地方の情報促進、公道・運河など公共事業の推進、病院や監獄の改善、科学技術の研究、産業への機械の導入、教育の振興や薬剤師の養成などに腕をふるった。農業をフランスの基礎と考え、清沢の農地化、土地台帳の整備、牛や羊類の品種改良など多方面にわたって活躍した。 また化学者として火薬の大量生産体制をも確立している。

1804年彼はナポレオンに辞表を出す。自由主義経済の信奉者だったが、生来穏健なリベラリストであったため個人の独裁制化に耐えられなかったのであろう。ナポレオンは、元老院議員にしてその労を報いようとしたが受けなかった。野にあって化学産業の経営や甜菜の栽培などに努力した。

砂糖の輸入量の増大を憂えた彼は、それにかわるものとして甜菜から砂糖を抽出する方法を開発し、甜菜の栽培を熱心に奨励したのである。
なお、1810年以後、強い要請を断りきれず、産業関係の要職に返り咲く。王政復古後もやはり才能を見込まれて、上院議員として活躍した。

革命前から革命後にかけて、粗悪なワインが横行した。増大する都市人口の需要への「20リュ規制による無秩序な量産」が原因で、かっては銘酒として愛飲されたフランス・ワイン(イル・ド・フランスのワイン)の質の低下が特に酷かった。
この状況の改善をはかるべく、識者の著作がそれまで無いわけではなかったが、彼が刊行した「葡萄概論」は、大変時宜にかなったものであつた。
百科全書派の科学者の目で、栽培地の選択、多産種の排除、栽培技術および醸造技術の改良、過剰生産の抑制など、ワイン造りに関する近代的総合論文として、その後の研究の出発点になった。
なお、彼の「フランス産業論-1819年」もこの時代のフランス産業の発展状態を示すものとして貴重な歴史的資料になっている。
シャプタリザション
シャプタルが、ワインの品質改良のひとつとして提唱したのが「糖分添加」だった。 彼の名前を取って「シャプタリザション」と呼ばれ、今日のフランスワイン産業にとって重要な役割を果たしている。

「シャプタリザション」は、出来上がったワインに糖分を加えるのでなく、発酵中の果汁に加糖する方法である。
もともとワインは、ぶどう果汁の中の糖分が酵母菌の作用でアルコールと炭酸ガスに分解されて出来るものだから、これは醸造の補完である。発酵が完全に行なわれれば、糖分はすべて分解されるから、出来上がったワインが甘くなるわけでない。

この方法は、1790年頃、クロ・ド・ヴージョで始めたものが、シャプタルの紹介で広く知られるようになった。もともと、ブルゴーニュをはじめ北の地方や、日照の少なかった不作時の対策とされたものだったが、今ではフランス各地に普及している。 (かつては南仏では禁じられていたし、今でもボルドーや南仏の一部で断固拒否している醸造元もある)
糖分添加自体が悪いわけでなく、その多用・濫用が弊害を生むため、現在ACワインでは厳しい規制がある。

まず、添加する前の果汁に法定の最小限の糖分が含まれていなければならない。使う糖分は甘蕪糖・甜菜糖・濃縮果汁に限られ、ぶどう糖の使用は禁じられている(白は甘薦糖のみ)。添加量は1リットル当たり30グラムが上限だった時もあったが、現在では各地で違っていて、ブルゴーニュで言うと発酵果汁1リットル当たり、赤が18グラム、白が17グラムになっている。添加された糖分はアルコールだけに変化するのでなく、芳香性の物質やグリセリンなどの発生も促すから、香りがよくなり、味わいにきめが細かくなるという副次的作用も営む。添加が適切に行なわれた場合は、ワインは洗練さを失わず、バランスがとれて安定するし、長寿と長旅に耐える素質を備える。

ブルゴーニュのワインの名門 ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティでも、糖分添加は、発酵の末期をコントロールする役割を果たし、タンニンを最大限に引き出すための果皮浸漬を長く継続させる手段で、醸造のおける必要不可欠な工程の一つと考えられている。
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