フランスワインの歴史
シャンパーニュ・パリ の 歴史

 

フランス革命と居酒屋

フランス革命は、貴族の王権に対する反抗、ブルジョワの貴族に対する反感、都市市民の食料暴動、農民の土地騒擾が、単独ではなく、関連結合して且つ同時発生的に行われたものである。1789年7月14日の、「バスティーユ監獄」の占拠がフランス革命の発端とされるが、その3日前、都市市民による「税関門の破壊」が行われた。
当時のある官吏の回想録には、次のように書かれている。

「自由の夜明けが最初パリ市民の上に輝いたのは、これらの税関門の破壊によってであった。彼らが初めて自分たちを苦しめていた束縛から自由になったことがわかったのは、この瞬間からである。税開門の破壊とバスティーユの破壊は、革命の記録において一緒に結びつけられる2つの事実である。この2つは切り離せない」と。

7月11日の夜遅く、モニュとダルポンという2人のやくざ者が、仲間を率いてラ・バリュール・ブランシュと言う税関門に火を放った。この門は、サン・ラザール通りにつながるショセ・ダンタンと呼ばれる通りを封じていたのである。
それをきっかけに、次の日はさらに多くの群衆が、モンマルトル、モンソー、クリシーなど北西の村からパリへ通じている道路をふさぐ同じような門に火を放った。 その次の日の13日は、北方サン・マルタン地区と東方サンタントワーヌ地区へ通じる門でも同様のことが行なわれた。
「バスティーユ監獄」の占拠はこの翌日である。

 

バスティーユの占拠

lin

 

中世以来、各都市は市内に持ち込まれる消費財に入市税を課し徴収して来た。ワインに関しては、価格ではなく、一定量につきいくらと課税されたから、大衆の飲む<並酒>には不利だった。
市内の居酒屋(キャバレと言った)で飲むワインは市の外で飲むワインの2~3倍にもなった。至極当然の結果として、この都市の城壁の外側、とりわけ税関門のすぐ外側には、ガンゲット(guinguette-酸っぱいワインをガンゲといったことから、それを飲ませる安酒場を意味する)と呼ばれる居酒屋がひしめくことになった。

18世紀中頃から、税関門-入市税徴収門は、徴税請負人によって贅をひけらかすような石造りの立派な城壁のものが作られたから、安酒をひっかけ日々の憂さを晴らし、貧困にあえぐ民衆の憎悪の最も大きな対象であった。
パリやリヨンは言うに及ばず、各都市ではこの税関門の破壊が最初に行われ、その後の徴税請負人のギロチンに繋がるのもフランス革命の一面である。

 

guinguette

 

キャバレ(居酒屋)
居酒屋をさす言葉は16世紀頃までは「タヴェルヌ」と言われていたが、17世紀には次第に使われなくなり、代わりに、ピカルディー地方に起源をもつ<小部屋>を意味する「キャバレ」が使われるようになった。

客は立ったままカウンターで飲むか、ワインを持ち帰えるのが普通で、こうしたキャバレは、通常門の上に葉のついた小枝の束(キヅタ、ヒイラギ、ツゲ、ブドウ)をぶら下げているのが目印だった。
それに対して、料理を出すキャバレは、客は席について食べ飲むことができた。料理は近くの仕出し屋が作ったものを出すのが普通だった。目印は、藁束か、多くの場合は木や金属の看板で、絵や文字を描き壁に取り付けた。「女たらし亭」、「三人の海賊亭」「強力ワイン亭」「公正価格亭」など面白い名前のものがある。

タヴェルヌやキャバレの営業は営業時間を始め種々厳しく規制されているのだが、著しく治安を乱すようなことが無い限り目をつぶっていたようだ。(告発された記録は少なくないが、概ね小事が多く放免されている場合が多い。社会から完全に逸脱した者はこの世界からも閉め出されていたことと、入市税の大事な財源だったことにもよるようだ)
ふしだらな場所として非難も受けていたようだが、有史以来の職業婦人である娼婦もパリには3万人いたと言うから、キャバレが彼女たちの生活の場でもあったことだろうから仕方が無い。しかし、バルザックの言葉を借りれば、キャバレは「民衆の会議」の大事な場でもあったことも事実だ。

 

カフェ
カフェは、1715年頃から、パリ・ロワイヤル周辺に、更にその後その回廊に、次々に生まれた。
カフェではワインを出すところは稀で、出す所でもシャンパニューの発泡性と非発泡性のワイン、トカイ、ラインのもと言った高価なワインだけだった。
飲むためと言うより、友達と顔を合わせご婦人方を誘うための場所だった。

コーヒーを飲む人はワインを飲む人より、控えめで思慮深い人と見なされ、1740年以降は、社会的地位ばかりでなく、知性ある人の社交場と見なされていた。
レストラン
パリの最初の本格的レストランは、1782年ボーヴィリエがリシュリュー通りに開いた。店の名は、グランド・タヴェルヌ・ド・ロンドルと言うものだった。
ロンドルと言う言葉をつけたのは、当時ロンドンには、この手の高級レストランが既に多数出来ていたからだろう。 主人である大貴族が亡命するなどして職を失った料理人は、例えばコンデ公に仕えていたメオが1791年にヴァロワ通りに店を構えたように、自分で商売を始めたのである。

プロの料理人と貴族やブルジョワの食通であるガストロノームの出会いの場となったのがレストランだったから、大革命によって事態は一挙に進展し、パレ・ロワイヤル界隈には無数のレストランが出現した。(革命40年後のパリには4,000店のレストランが出現する)
ミラボー、タレーラン、カルノー、オルセ伯、シャプリエ、タリアン夫人など旧貴族・ブルジョワの革命家たちが定連だった。
少し離れたところにあった「メオ」「ロベール」「トロワ・プロヴァンソー」などのレストランが左派のクートン、サン・ジュスト、マラー、バラス、フーシェ、デュマたちの巣になっていた。そこで議論し憲法草案をも作ったりしただろう。若き日のナポレオンも使っている。

明日がわからない身の不安が、贅沢な美食・美酒に革命家たちを駆りたてたのだろう。ワインも買い値の3~4倍し料理も高価だから、庶民には近寄り難い高嶺の花だった。

*レストランという言葉は、キャバレで出す事が認められていた肉などを煮た煮汁の「ブイヨン」をレストレ(力をつけるもの)と言う意味で「レストラン」と呼んでいた。
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