フランスワインの歴史
プロヴァンス(フランス南部)の歴史

 

王が建設した自由都市「エーグ・モルト」

エーグ・モルトは中世の城壁が完全な姿で残っている町で、現在、南フランスの観光スポットの一つである。

1240年、ルイ9世(聖王ルイ)が、第6回十字軍を計画した時、地中海沿岸にはフランス国王に属している港がひとつもなかった。十字軍は、西欧キリスト教国の連合軍と言ってもいいのだから、諸侯領や外国の港を使っても不都合は無かったはずだが、敬虔で誇り高いルイ9世としては、どうしても自前の根拠地が欲しかった。そこで、小さな港と砦のあったエーグ・モルトの地を修道院から譲り受け、大規模な城塞と港を造り始めたのである。完成したのは次のフィリップ3世の時代。

ローヌ・デルタの西端に位置し、当時は潟に囲まれた島のような地形のエーグ・モルトは、死んでいる(よどんでいる)水域という意味で、6キロかなたに海があり、船が航行できる水路が通じていた。 攻めるに難く、守るに易い要害の地ではあるが、後背地との交通は不便だった。そこで、人を集めるため、 ルイ9世は、1246年、エーグ・モルトに居を定めようとする人々に「都市特権特許状」を公布した。

住民は人頭税も、商品を運び込む通行税も免除され、財産は王権のもとで保護された。 司令官1人と25人の兵士の小守備隊を、町の城門の警備に当らせ、住民はいかなる軍事的義務も課せられなかった。最後に王は、住民が指名した行政官によって住民自らが町を統治すると言うことまで認めた。

週に1度の市と年に1度の大市も開かれ、その間、商人たちは王の保護下で商売が出来た。これらの措置は好結果を招き、早々と多くの人々がエーグ・モルトに定住するようになっていった。アグドやサント・マリー・ド・ラ・メールやモンペリエと言った近郊から、また、遠く、イタリアのジェノヴァやイベリア半島のカタロニアからも移住して来た。

聖王ルイの2回に渡る十字軍は失敗に終わるのだが、エーグ・モルトは、商港として発展・繁栄する。つまり新しい「自由都市」の出現だったのである。
しかし、100年後の14世紀中頃から急に寂れてしまう。水路が土砂で埋もれて次第に浅くなり、大きな船の出入りに不都合が生じてきたからである。 船の大型化についていけなくなった、河港のアルルやエーグ・モルトが寂れたのに対し、 東のマルセイユ、西のセートが、地中海の要港として大発展の時代を迎えていくことになる。

以来、時代の進展から取り残され、壮大な城壁もろとも眠り続け、時間の止まった中世の町として、今日残っているわけである。現在、周囲の潟は陸地になり、ブドウ畑や塩田が広がっている。

 

 

十字軍
200年の間に、8回の十字軍の遠征があったが、その表向きの目的、「聖地エルサレムの異教徒からの開放」の、真の成功は、第1回十字軍(1097~99)だけである。

十字軍の始まる前の400年間と言うものはエルサレムは、イスラム教徒の手にあったが、そのカリフの支配下でも、聖地への巡礼者は尊敬され丁重に遇されていた。 しかし、1076年、タタール人のセルジューク・トルコの手にバクダッドが落ちてからは事情が一変、巡礼者たちに略奪と残虐の嵐が振り掛かってくるようになったのがことの始まりである。

イスラム教徒と言っても一様でないのは、キリスト教徒も同じで、神に名の下に、正義を掲げたこの戦いは、多くの人命と財力を使い果たした割には、得たものが殆どない。敢えて言えば、宗教によって歪められることの少なかった古代ローマの文明が欧州に伝えられたことくらいである。

争いの絶えない現代の世界は、歴史から殆ど学んでいないようだ。
Copyright © wine-jiten.com. All Right Reserved