フランスワインの歴史
プロヴァンス(フランス南部)の歴史

 

ワイン文化発祥の地 マルセイユ

マルセイユの旧港の「ベルギー人の埠頭」と呼ばれる埠頭の中央に、一枚の青銅板が埋め込まれている。 「紀元前600年、ギリシァの船乗りたちが小アジアのフォカイアからやって来てマルセイユを建設。 西欧文化は、ここを発祥の地とする・・・・」と。

フォカイアは、エーゲ海のキオス島の東、現在のトルコのイズミールあたりに、古代ギリシャ人が建てた植民地である。ペルシアの攻勢にあったフォカイアの人たちがその都市を捨ててそっくりこのマルセイユに避難して来たのである。
マルセイユ周辺は、ケルト(リグリァ)人が支配していたので、ギリシャ人は船団が仮泊していた湾周辺の土地を話し合いで獲得した。

それは、リグリァ人にとっても、部族ごとに対立抗争していたから、ギリシャ人から入手できる優秀な武器をはじめとして交易の利益も大きかったからに違いない。 植民してきたギリシャ人たちは、金属器や陶器などを作る技術を伝えた。
オリーブやブドウなどの果樹栽培、ワインやワイン文化を普及させたことは言うまでない。

こうして生まれた植民都市はマッサリアと名付けられ、ギリシァの小都市として繁栄する。後に それがマルセイユと呼ばれるようになる。商才にたけていたギリシァ人は、地中海の沿岸に次々と商館を設けて熱心に交易を続けた。 マッサリアの最盛期には、東はモナコとニース、西はスペインのマラガまでが、その取引圏に入っていた。また、マッサリアは地中海文化圏をローヌ川沿いに北へ拡げる拠点でもあった。

 

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前2世紀後半になって、内陸部からのケルト(リグリァ)人の侵攻に耐えかねて、新興ローマにケルト人の追放を頼んだ。 ローマ軍は3年間悪戦苦闘したが、結局ケルト人の追放に成功する。その見返りとしてマッサリアの内陸部に入植し、ここを植民地として属領 (プロウインキア)にしてしまう。今日の、プロヴァンスの名前の発祥である。

前49年のローマの内乱、カエサル(シーザー)とボンベイウスが対立した時、ボンベイウ ス側についたマッサリアは、前50年にカエサルに包囲され、2度の海戦と6か月の籠城の末、遂に降伏する。 当然のことながら主要なギリシャ人の植民港湾都市はほとんど没収さ れてしまう。

この攻防戦のなかで、カエサルはアルルの重要性(イタリアとイベリア半島を結ぶドミティアヌス街道の中間にあたり、同時に北のガリアヘ行くアグリッパ街道の出発点)に気がつき、マッサリアが独占していたいろいろな特権を取り上げ、それをアルルに与えてしまう。 以来アルルは、ローマ帝国西部の政治的・文化的繁栄地となったが、マッサリアの方は要都としての昔日の面影を失う。 出番がまわってくるのは、船が大型化する中世後期で、 オリエント交易の窓口として復興する。

しかし、マルセイユが、フランス第2の大都市として現在のような隆盛を誇るようになったのは、スエズ運河開通やアルジェリアの征服、 鉄道開通などの後、つまり19世紀以降のことである。

 

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