フランスワインの歴史
ボルドー&南西地方の歴史

 

百年戦争

14・15世紀の西欧世界を襲った災害は、ペストと戦争である。
1347年末、中東からイタリア商船が持込んだペストはマルセイユに最初上陸した。当時、度重なる飢饉にって住民の栄養状態は悪く、抵抗力を弱めていたため、ペストはヨーロッパ社会にたちまち蔓延する。ペストは周期的に流行を繰返し、フランスでは1世紀半の間に、住民の30~50%の命を奪った。

しかし、局地的に最大の災害をもたらすのは常に戦争である。なかでも最大の被害を及ぼしたのは、フランスを舞台にした王位継承の争い、「百年戦争」であった。戦争は百年間休みなく続いたわけではなく間款的であったが、2つの局面に分けられる。

カペー朝はフィリップ4世の死後、3人の息子が次々に若死したため、深刻な王位の継承問題が起きた。従兄弟のヴァロワ家が王位を継いで、新王フィリップ6世(在位1328-50)として即位する。しかし、先王フィリップ4世の娘を母とする英国王エドワード3世(在倍1327-77)が、フランス王の継承権を主張して、積年の英仏王家の対立が再燃したことがことの始まりである。

1339年、エドワード3世が、軍をひきいて北フランスに侵入した。 フランス側は緒戦でこそ大敗したが、その後30数年戦い続け、1375年には、カレー、ボルドー、パイヨンヌを除いて失地をほぼ回復する。これが第1局面である。

 

 

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第2局面は、平穏な約30年の後、フランス側の内部分裂から始まる。ヴァロワ朝のシャルル6世(在付1380-1422)の脳神経疾患が昂じたので、その弟のオルレアン公ルイと従兄のブルゴーニュ公ジャンによるフランス王家の中での権力争いが始まった。

1407年、ブルゴーニュ公がオルレアン公ルイを暗殺した。 これをきっかけに、「ブルゴーニュ派」と「オルレアン・アルマニヤック派」の内乱となる。
ブルゴーニュ派は東部・北部の、オルレアン・アルマニヤック派は西部・南部の領主を基盤とした。
一方、英国では、1399年に、ランカスター朝が成立していたが、ヘンリ5世(在位1413-22)が、フランスのこの内乱に乗じて、1415年にノルマンディに侵入し、アザンクールの戦いで大勝する。

フランスでは、オルレアン・アルマニヤック派が皇太子シャルル(後のシャルル7世)を担ぐのに対し、ブルゴーニュ派はシャルル6世を担ぎ激しく争っていたが、1420年、ブルゴーニュ派のシャルル6世は、再度侵入した英国王ヘンリ5世と「トロワ条約」を結ぶことになる。その内容は、ヘンリ5世がシャルル6世の娘カトリーヌと結婚し、シャルル6世の死後はフランス王位を継ぐことを定めたものであった。

2年後の1422年、英仏両王がたまたま相ついで死亡。条約に基づいて、ヘンリ5世の子ヘンリ6世(在位1422-61)が、生後10ヶ月ではあったが、英仏両国の王となり、叔父のベッドフォード公が摂政として、ロワール川以北の北フランスを支配し、親英の立場のブルゴーニュ公が東部を支配する。

一方、皇太子シャルルの方は、シャルル7世(在位1422-61)と称し、プールジユに退いてロワール川以南を支配する。が、母イザボーが皇太子は不義の子でヴァロワの血を引いていないと証言したため混乱し、士気は上がらなかった。 1428年、ベッドフォード公はこの曖昧な状況を打開するため、オルレアン・アルマニヤツク派の要地オルレアンを攻囲した。

 

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ジャンヌ・ダルクと百年戦争の終結
ジャンヌ・ダルク(1412頃-31)が登場するのは、この時である。 ジャンヌはロレーヌのドンレミ村の裕福な農民の娘で、1429年、オルレアン攻囲を知ると意を決して王太子に会い、ロワール河畔のシノン城で、戦士の列に加えられることに成功。天使の旗印を掲げて入城した彼女を迎えたオルレアンは士気が上がり、10日後にオルレアンは「奇跡的」に解放された。

次いで、彼女はランス進撃を強行し、7月、ランス大聖堂でシャルル7世の「聖別式」を実現させた。これによって疑惑を引きずっていたシャルルの地位は強まり情勢は有利に働いた。しかし、翌年5月、ジャンヌはパリ近郊の戦闘中、親英派のブルゴーニュ軍の捕虜になってしまった。身代金と引換えに英国軍に売渡され、悪意と計略に満ちた異端裁判の未、ジャンヌはルーアンの広場で焚刑に処せられてしまう。

この後の1435年、ブルゴーニュ公国は英国と同盟を結んでいたが、フランドルの支配権をめぐって両者の間にひびが入り、オルレアン・アルマニヤック派とアラスで和解する。 この和解以降、統一したフランス軍は、英国軍を次第に駆逐していき、1453年、英国の手には、大陸側の領土としてはカレーだけを残し、百年戦争は事実上終了する。

ボルドーを中心とするギュイエンヌ地方の人々は、英国と経済的、政治的、社会的に関係深い親英派だっから、フランス北部と違って最後まで抵抗した。1451年春にフランス軍の本格的攻撃が行なわれ、いったんは制圧される。しかし、ボルドーは英国としても重要な拠点だったから、トールポット将軍の軍隊をボルドーに出兵、反撃を試みる。が、結局1452年の戦いで敗北する。この最後の戦いの地が、サン・テミリオンの東で、今でもその名を残すカスティヨン・ラ・バタイユ(戦場の意味)である。
百年戦争終了のフランス社会の変化
百年戦争の終了後、仏領になったボルドーは、ジョン失地王(英)に認められた諸特権を一旦は失うが、利にさといシャルル7世(仏)は、ボルドーの振興とその貿易がもたらす利益を考えて、この旧特典を回復させたので、息を吹き返す。しかし、ワイン貿易の額は、百年戦争の始まる前の8分の1に減少。戦禍によることに加えて、ボルドーに代わって、様々な国から多くの魅力的なワインが英国及び北欧へ運ばれるようになったからだ。

「百年戦争」は、中世の封建社会を構成する農民、領主、教会、都市の権力を大きく変化させた。 戦禍と人口減少によって農村は荒廃し耕作面積は減少した。それを理由に、農民は、貢租や賦役の減少を要求したり、領主の緊縛から逃れて農奴の地位を脱したりして、総体的には農民自身地位は向上させる方向へ向かった。

しかし、最大の打撃を受けたのは領主層である。人口減少と農村の荒廃のため基本的収入源である封建的貢租の基礎を崩されたばかりでなく、領主の戦死による家系の断絶や捕虜の身代金の出費で没落する者が少なくなかった。 次第に、領主層は宮廷に取り入り、国王から役職や年金をもらう方向を取り始める。

ルイ11世(在位1461-83)の死亡時には、約750人もの宮廷人を生んだ。弱体化した各地の領主の土地防衛は王の常備軍が代行した。これが王の地位と権威を高め、次の世紀の絶対王政確立への途を開いて行くことになる。
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