フランスワインの歴史
ボルドー&南西地方の歴史

 

中世のボルドーの興隆

ボルドーは、ガロ・ローマ時代から葡萄を栽培していてワインの評価も高かった。ボルドーには広大なブドウ畑があったと思われるが、事実はそうではない。 メドックには殆ど葡萄の木は無く、あったのは南のグラーヴが中心で、プルミエール・コート、アントル・ドウ・メールやブライにも葡萄畑はあったが、それほど広いものではなかった。

ボルドーから英国や北欧に積み出されたワインは、アキテーヌ盆地全体のものであった。タルン川上流のガイヤック、モワサック、アジヤンから、又、ボルドーに近いサン・マケール、ランゴン、バルサックからガロンヌ川を下ってくるか、あるいはベルジユラツクやサンテミリヨンからドルドーニュ川を下って運ばれて来た。 こうした地域のワインは、一般に「上流地ワイン」と呼ばれていたものである。

ボルドーは「商業中心地」としての始まり、北欧交易の港町として発展してきた町である。エレオノール妃の再婚がきっかけで、英国領になったのだが、英国との結び付きが「ワイン貿易」通じて急速に深まり、大きく発展、興隆する。 ことに失地王ジョン王の時世に、ボルドーは常に親英派としての様々な政治工作を通じて、市長の選出権をはじめとして、関税免除や貿易上の特権を手に入れ、いわゆる「自由都市」として発展して行く。(歴史「都市」参照)

13世紀の中頃には、英国王室へのワイン供給量の4分の3はボルドーが賄っていた。王室と言っても王の食卓ばかりでなく贈り物や記念の品、それに、宮廷や行政機関や軍隊のものを含んでいる。 14世紀の前半に、7年間の輸出の完全な記録が残っていて、年平均では、83,000トノー、即ち700,000ヘクトリットルである。その内、英国への輸出がほぼ半分で、当時の英国の500万程度と推定される人口で割ると、控え目に見積もつて6本のワインになる量である。

この英国向けの船を襲う海賊を退治するために編成された護送船団が、後に世界を制覇する「大英帝国海軍」のはしりであり、又、今日、船の積載量の基準になっている「屯」は、当時の樽の大きさを表すトノーから生まれたものだし、会計上の「流動資産」という言葉は、ワインの積荷が液体の財産だったことから来ている。ボルドーのワイン交易が、既にこの時代、いかに盛んだったかを物語っている。

 

 

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ボルドーのワイン貿易と「ボルドー特権」
ボルドーのワイン貿易で、決定的に重要だったのは、「ワイン証書」である。河川交通の要所にあるボルドーの地理上の立場を利用した、ボルドーのワイン生産者や商人たちの優遇措置で、「ボルドー特権」とも言われている。

例えば、ボルドーは周辺地域に対して、ボルドーの港以外からの外地へのワインの積み出しを禁止していた。下流であろうと上流であろうと、まずボルドーに持って来て、ボルドーから出航させた。ワインの輸出のボルドー商人の独占である。
また、上流地域のワインはボルドーのワインが売れてから市場に出回るよう、ある日付以前はボルドー市への荷揚げを認めないと言うものもある。 これは当時のワインは樽詰めだから長持ちせず、取引はその年の新酒に限られていたことを考えると、上流地不利な規制である。更に、ボルドーの商人は、上流のワインの樽の大きさを小さなものにするというような措置まで講じている。

この特権が完全に廃止されるのは1776年であるが、こうした特権は、中世以来各地に見られるが、適用範囲の広さと期間の長さの点でボルドーのそれに勝るものはない。500年も続いたこの「優遇措置」の影響力は絶大だった。 そして、16世紀以降「ボルドー港の積み出し独占」の撤廃などボルドー特権が一部弱まるなかで、地の利のあるメドックが浮上してくるのである。

 

ワイン産地研究の大御所・ロジエ・デイオンが述べているように、 ワインは土地の産物であると同時に人為の産物でもある。ボルドーワインの偉大さはボルドー人たちの政治的手腕によって獲得された面が大きいことは否定できない。
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