イタリアワイン の 歴 史

「質より量」の葡萄栽培

新大陸、新航路の発見による通商路の変化とイタリア貨幣の下落は、ヴェネツィアやジェノヴァ、フィレンツェなどの自治都市を衰退させ、フランス、スペイン、オーストリアなどの外国干渉やそれに続く劣悪なスペイン支配を受け、17世紀以降のイタリア経済は衰退の一途を辿った。北方諸国の市場をオランダに奪われ、イタリアのワイン産業も、ルネサンスの輝きと共に、その勢いを完全に無くしてしまった。

確かに、18世紀末から19世紀始めには、シチリアの「マルサナ」があり、後述する統一イタリア共和国設立に力を振るった政治家たちのイタリアワイン産業への貢献を見過ごすことはできない。しかし、大勢は「質より量」のワイン造りに突き進んで行く。フランス革命以後、自由を与えられた農民は、金になりさえなれば、どこの耕作地であろうと無秩序に新しい葡萄畑を作ってしまった。フランスでも「質から量」の時代を迎えるのだが、イタリアのように、後々まで続くことはなかった。 イタリアは、恵まれた気候と地形のお陰で、葡萄の木が育たない地方は一つとしてない。面倒な作業などしなくても、そこそこいい葡萄の収穫が出来てしまう。そう言ったことに加え、19世紀半ばから末に掛けてのフィロキセラ禍(フランスの葡萄栽培を殆ど壊滅させた害虫被害)時期のような、フランスワインを補うためのイタリアワインの需要の増大が度々重なり、この「質より量」に拍車を掛けたからである。

イタリアでは、この時期、殆どが個性の無い量産ワインを造っていたとは言え、地方により独特の葡萄が何百とあった。そしてその葡萄の利用法も地方の数だけあった事は確かである。しかし、栽培農家はもとより、貴族や聖職者の邸宅や城館においても、葡萄栽培に注意を払い、知識を駆使してワインを醸造することはめったになかった。 また、商品として品質を整え、販路開拓をするような熱意を持ち合わせている人はごく少数に過ぎなかった。 フランスのような高品質ワインを造ろうとする研究・努力が、本格的に、多くの人の間で始まるのは20世紀も半ばからである。

 

三人の「統一イタリア」創建者と葡萄栽培

”統一イタリア”創建に大きな働きをした指導者に、ガルバルディとカヴールとリカソリがいる。 ガルバルディとカヴールについては英雄としてよく知られているが、リカソリもまた、トスカーナ公国を率いて、カヴールのサルディニア王国との同盟を結び、統一への大きな流れを作った人物である。統一後、初代首相に就任したカヴールが、就任早々の3ヶ月で没するため、その後を継いで二代首相を担う英傑である。
この三人は共に、農業に深い関心と造詣があり、葡萄栽培にも貢献している。

 

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「バローロ」と統一イタリア初代首相・カミッロ・カヴール(Camillo Cavour 1810~1861)
Camillo Cavour
サルデーニャ王国の首相を務めたカヴールは、ピエモンテの名門貴族の子としてトリノに生まれた。政治家になる前は実業家として金融や鉄道事業に携わっていた。

自分自身の領地をバローロ地方のグリンツァネに持っていたこともあって、農業経営にも熱心で、進んだ農法を学ぶため英国に赴いたこともあった。

彼は、フランスのワイン学者・ルイ・ウダールを招いて、それまでのかなり甘口になる不安定なバローロのワインの改良に乗り出し、色の濃い、辛口の強い長期熟成に耐えるワインを造り出し、ネッピオーロ種の持つ能力を十二分に発揮させた今日のスタイルの基を築いたと言われている。

カヴールの改革を熱心に支援していた国王は、バローロ地方の中心地セツラルンガ・タルバの丘にある立派な狩猟用の館を、革新的な新しいワインを生み出す場所として提供している。

カヴールは、統一イタリア国家創建の英雄であるが、ピエモンテのワイン造りの近代化の礎を築いた立役者でもあった。

 

「キャンティ」とベッティーノ・リカソリ男爵(Bettino Ricasoli 1809~80)
Bettino Ricasoli
リカソリは、正真正銘の帯剣貴族である。11世紀のロンバルディアの男爵家に遡る武門の旧家。 気高く、禁欲的で、教育と改革に一身を投げうち、統一イタリア創建に尽力、統一イタリア共和国の第二代首相をも務めた。

キャンティ・クラッシコの中心のあるブローリオを相続したベッティーノ・リカソリ男爵は葡萄栽培にも熱心で、若い頃は、フランスとドイツを旅して栽培方法と醸造技術を研究し、多くの品種を持ち帰り試したと言われている。

キャンティの歴史は古く、700年代の記録がある。16世紀には、この地には多くの醸造家がいた。フィレンツェのルネサンスが国際的関心を呼び、そのワインはロンドンにも届いていた。1716年には、トスカーナ大公国のコシモ3世は、品質維持のため、布告によってキャンティの境界も定めた。しかし、 今日のキャンティの基礎を作ったのは、19世紀のベッティーノ・リカソリ男爵(1809~1880)である。

男爵は、従来のキャンティとは違う配合を試み、口当たりのいい、爽やかな赤ワインを生み出した。1847年のことである。
この白黒葡萄の混醸がキャンティの醸造方法として今日まで踏襲されている。男爵は、ブドウの混醸比率(サンジョヴェーゼ70%、カナイオーロ・ネーロ15%、マルヴァジーア15%)について次のように語っている。

「サンジョヴェーゼから香りの大部分と力強さを得、カナイオーロからは前者の香りを損なうことなくワインの硬さを和らげる口当りの良さを与えられる。 マルヴァジーアはワインを長く熟成する時にはあまり意味がないが,そうでなければ前の2つのぶどうの効果を和らげ,風味を強め,すぐ食卓で使用できるようにワインを軽くする」と。

リカソリ家のブローリオのワイン造りは、一時期、リカソリ家の手を離れていたが、1993年、32代目の当主・フランチェスコ・リカソリが全面的に経営権を取り戻し、陰りを見せていたワインを全面的に改良した。本命の「キャンティ・クラッシコ」はもとより、IGTの「Casalferro」もスーパー・タスカンとして注目を浴びている。

 

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「うどんこ病」とジュセッペ・ガリバルディ(Giuseppe Garibaldi 1807~82)
Garibaldi
ガリバルディは、ニース(当時はサルディニア王国の一部)生まれの革命家である。
その波乱に富んだ人生は語り尽くせないが、正義感と義侠心に富んだその生き様は、イタリア人に圧倒的人気を博している。

戦いに明け暮れた人生であったが、農業にも深い関心を寄せていたことはあまり知られていない。

フィロキセラに襲われる前の19世紀の真ん中で、うどんこ病が、ピエモンテに侵入し、葡萄畑を壊滅状態に陥れた。
うどんこ病は硫黄で対処することがボルドーでは発見されていた。しかし、使うのは「硫黄」である。いいワインを造るために「神に祈る」ことしか知らない超保守的なイタリア農民は聞く耳を持っていなかった。

だが、農民に人気のある「ガルバルディの言」は違っていた。1856年、硫黄を使った栽培者だけが収穫を得た時、ガルバルディは、「奇跡を起こす人」として、その評価は頂点に達した。
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