イタリアワイン の 歴 史

経済・文化の衰退と外国干渉

1492年は、コロンブスの新大陸発見(西インド諸島到着)の年であると共に、ルネッサンスの典型君主ロレンツォ・デ・メディチの没した年。イタリアの政治・経済・文化のターニング・ポイントとも言える。

新大陸、新航路の発見による世界の通商路の変化によって、ヴェネツィアもジェノヴァもフィレンツェも、直ちに、経済大国としての地位を失ったわけではない。 しかし、その100年後後のヨーロッパを見てみれば、事態は明らかである。
イタリアは、政治的に独立を失い、スペイン支配のもとに坤吟しなければならなかっただけでなく、経済的にも他の諸国の後塵を拝し、金融はオランダに奪われ、文化の中心もフランスに移っている。

ドイツに起こったマルティン・ルターによる宗教改革(1517年)の嵐は、たちまち全欧を覆い、ローマ・カトリック教会は大混乱に陥った。
分裂の痛手から立ち直るために、教皇庁は強国スペインの武力を後ろ楯にした。スペインはその代償に、イタリア半島全域に覇権を確立し、ミラノ公国を王の直轄領とした。
態勢を立て直したカトリック教会は、組織を引き締め、綱紀を粛正して反撃に出る。いわゆる「反宗教改革」ある。

スペインの陰鬱な支配と、厳しくなった教皇庁の締め付けのもとで雰囲気は一変、異端審問の脅威の前に、言いたいことも言えない。事実異端の嫌疑がかかればすぐにも引っ立てられ、最悪の場合は火あぶりである。
ロレンツォ・デ・メディチ在世時のあの華やかな祝祭は、はるか遠い昔の夢の中、ルネサンスの光は消え、個性や独創は発揮の場を失って行った。

 

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イタリア戦争とその後のスペイン支配
政治的に言えば、16世紀以降のイタリアは、軍事的には無力で、強力な統一国家になったフランス、スペイン、オーストリアの支配干渉を、事ある度に受けることになる。

1494年、フランスのシャルル8世が、ナポリ王国と対立するミラノ公の要請により、イタリアに侵入する。その際、シヤルル8世は、かつてアンジュ一家の祖先がナポリと南イタリアの大半を統治していたことから、ナポリ王国の継承権を主張して自らのイタリア介入を正当化した。「イタリア戦争」と歴史で言われるものの始まりである。
以後、フランスとスペインのイタリア支配をめぐる戦いは度々繰り返され、1559年、「力トー・カンフレジの和約」により、フランスがイタリアへの権利を放棄することで終結する。

その後のイタリアは、スペイン支配を受け、1701年の「スペインの王位継承戦争」まで続く。
イタリアで外国勢力の支配を受けていないのは事実上ヴェネツィアと法王領だけであった。

スペインは、イタリア各邦に、土着人の身分制的な議会を一応認めてはいたが、 それぞれ総督を配置し、スペイン本国本位の支配を行った。それはイタリア人の間の社会的対立を巧みに利用した搾取的な植民地支配であったので、全盛期スペインの繁栄のおこぼれにあずかった少数の例外を除いて、イタリア各邦は、衰退の一路をたどるよりほかなかった。
特に、封建領主制がなお固く支配的であった南イタリアにおいては、一層悪かった。久しい虐政、国家や封建貴族の法外な搾取、度々の飢饉、疫病の流行、それらに伴う社会秩序の破綻などから追いたてられた民衆は、しばしば飢えに迫られて絶望的な反抗に走った。
20世紀まで残る南イタリアの後進性は、このスペイン支配の影響と言える。   
イタリア経済衰退の最大要因
ドウカーティ金貨

イタリア経済衰退の最大の要因は、スペインによるアメリカ大陸からの大量の金銀の流入である。
スペイン人は中南米のアステカやインカを征服し、そこの大量の金銀を奪って本国へ送り、さらに、彼らを酷使して金銀鉱山を採掘し、これもスペインへと運んだ。 そして、それまでには考えられない莫大な量の金銀を、毎週毎月ヨーロッパに流入させたのである。
当然、物価は上昇し、金銀の価格は大幅に下落、通貨の価値も当然下落。ヨーロッパは史上初めて、深刻なインフレを経験することになった。

このインフレで打撃を受けたのが、それまでヨーロッパ金融の中心だったイタリアである。 
国際機軸通貨であったフィレンツェのフィオリーニ金貨、ヴエネツィアのドウカーティ金貨は、このインフレの大波の中でかつての威力を失い、イタリア諸都市の諸銀行に蓄積されていた富は、バブルのように弾け飛ばされた。
こうして、イタリア経済の基盤をなしていた金融の面で、イタリアは回復不可能の打撃を受けたのである。
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