イタリアワイン の 歴 史

シチリア王国の誕生と変遷

シチリア島は古来、地中海世界の人種のるつぼ、異文化の出会いの場所であった。

紀元前8世紀、ギリシャ人が植民し、この島に文明の最初の花を咲かせ、次いでカルタゴ人が渡って来た。パレルモは、カルタゴの植民市として創建された町である。
前3世紀にはローマが進出し、シシリアはローマの最も重要な属州の一つになった。
西ローマ帝国が衰亡すると、ゲルマン民族の、まずヴァンダル族、次いでゴート族が島に侵攻する。
6世紀には、東ローマ帝国(ビザンチン帝國)が反攻に出てここを奪回。パレルモに総督府を置いてビザンチン文化の西の砦とする。
しかし、9世紀に入ると、サラセン軍が怒涛のように押し寄せて、この島をイスラム文化圏の最前線基地に変えてしまった。そして、ほぼ200年に渡って居座る。
これをキリスト教世界に取り戻したのが、1061年、ヴァイキング、即ち、スカンジナウィア生まれの北フランスに定住したノルマン人の軍団である。

 

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シチリア王国の誕生

最初は、略奪目当ての傭兵として南イタリアにやって来たノルマン人は、1030年頃にブーリアに独立国家を建設し、ここを足がかりに南イタリアを征服して行った。
30年以上の歳月を費やして、シチリア全島の制圧し、半島南部と併せて当時ではヨーロッパ有数の独立国・ノルマン・イタリア王国(シチリア王国)を造り上げた。
ノルマン・イタリア王国は、官僚機構を整備、封建領主に分散していた権力を集中。都市の自治は認めなかったが、産業貿易を振興。信仰の自由を認め、治安を確立して民心を掴んだ。
12世紀半ばには、ヨーロッパで最も豊かで文化的な国となり、首都パレルモは世界で最も「国際化」された都市となった。

このノルマン・イタリア王国の成立で、イタリアは、ローマを挟んで、北の自治都市(コムーネ)群、南に集権的国家と言うその後のイタリア史の政治的枠組みが誕生したのである。

この政治状況は、イタリアでは神聖ローマ皇帝の実質的権力が及ばないことを意味している。
皇帝・フリードリヒ1世(バルバロッサ-赤髭王)のように、皇帝は帝権確立を目指して、自治都市(コムーネ)群に、度々攻め込むのだが成功しなかった。
しかし、「赤髭王」は、わが子ハインリヒ6世とノルマン・イタリア王国の皇女・コンタンツァと結婚させることに成功する。 これは、後に、ノルマン・イタリア王家の男子継承者が途絶えた時、皇女・コンタンツァが王位継承者だから、ノルマン・イタリア王国を引き継ぐことになる。
このハインリッヒ6世とその子・フリードリッヒ2世のノルマン・イタリア王国の継承は、帝権の伸長を望まないローマ教皇の介入で、決してスムースなものではなかった。

赤髭王の孫にあたるフリードリッヒ2世は、教皇と対立する複雑な政治状況の中で、帝権確立を目指した中世きっての傑出した人物で、近代絶対主義の先駆者とも言われる。その宮廷は、古典古代復興の機運が、ルネッサンスに200年先駆けて最初に起こる、最も文化的で華やかなものであった。

 

皇帝フリードリヒ2世
フリードリヒ2世(イタリアではフェデリーコ)は、父・ハインリヒ6世が32歳で死去した時、わずか3歳に過ぎなかった。中部イタリアの小さな町イェージに生まれ、一貫して南イタリアで成長した。
彼の中には、父方からゲルマンの神聖ローマ帝国の伝統、母方からは、ビザンチン及びイスラム文化の影響を留めているノルマン・イタリア王国の伝統の2つが流れている。
シチリアの独特な国際的環境と不安定な政治状況の中での成長が、中世の君主の中でも、ひときわ特異な性格を形作ったと言える。

教皇・インノケンティウス3世は、シチリア王国の相続人・フリードリヒを自分の支配下におくことは教会国家にとっても将来重要な意味をもつと判断し、シチリア王国に対する教皇の宗主権を確認した上で、幼いフリードリヒの後見人となる。
そして、成人した王は、ドイツに赴き(8年間)、当時破門を受けていた皇帝のオットーと争い、これを打ち破り、次の教皇・ホノリウス3世から神聖ローマ皇帝の冠を受ける(1220年)。この時、ノルマン・イタリア王国には手を出さないことと十字軍遠征を約束させられる。

しかし、皇帝になることを認めた教会側の目算はたちまちはずれることになる。 皇帝としてのフリードリヒは、シチリア王国の支配を強化し、それを神聖ローマ帝国と結合させ、さらに両者の中間地帯である北イタリアを支配下に入れると言う教会が最も怖れる政策に乗り出した。

まず、彼は、南イタリア各地で独立的傾向を強めていた封建領主層を支配下に治め、官僚制を強固に整え、裁判権の集中独占を図った。
王権の集中・絶対化は、1231年のメルフィ法典(ローマ法に基礎を置いて、イスラムやノルマンの影響もみられる中世初の国法典)において頂点に達する。・・・フリードリヒは、エジプトやテュニジアのスルタンとは個人的にも親しい関係にあった・・・・。
また、塩・鉄・絹などの国家独占をノルマン王朝から継承し、王領の拡大、王室財政の強化を行った。

フリードリヒのもとで形成された国家は、「近代絶対主義の先駆」ともみえ、ブルクハルトは、彼を『王座に位した最初の近代的人間』と呼んでいるが、本質的にはビザンチン・ノルマンの伝統をつぐ専制国家であったといえよう。
フリードリヒ2世のバレルモの宮廷
バレルモの宮廷には、一種の国際的性格を持つ文化が、ルネッサンスに先立つ200年前に、形成された。
国王自身が武術は言うに及ばず、ギリシャ語やアラビア語はもとより数ヵ国語を操る語学の天才で、歴史、哲学、神学、天文学、数学、植物学をものにし、詩作や楽器演奏をも習得していた偉才であった。教養ある優雅な会話は、宮廷に集まる知識人や芸術家を魅了した。
そこにプロヴァンス出身の詩人たちが集まり、やがてシチリア語による詩が作られるようになる。これがイタリアにおける俗語文学(ダンテの「神曲」やボッカチオの「デカメロン」)の発端であると言われる。

 

Castel-Monte

 

彼自身は科学、特に数学が好きだったようで、それを象徴するのが、ブーリア州の<DOC・Castel del Monte(カステル・デル・モンテ)>のランドマーク的存在の城であろう。
8角形の塔で構成された幾何学的フォルムは、近代建築かと見まごう異彩を放つイタリア・ゴシック建築を設計・建設したのである。
また、当時の聖職者による文化独占を打破し、世俗の知識人を結集・育成を図るべく、ナポリに大学を新設した(1224年)。この時代教皇の影響の強かったポローニャ大学に対抗させようとしたのである。

ドイツに本拠地を持つ「神聖ローマ帝国」とシチリア及び南イタリアの「ノルマン・イタリア王国」を治め、イタリアに強大な統一専制国家を築いていこうとするフリードリヒの前に大きく立ちはだかったのは、当然のことだが、教皇庁と自治都市(コムーネ)であった。
教皇庁は、西欧全域に広がるローマ・カトリック教会の中心機関だから、社会・政治的影響力を維持しようとすれば世俗権力が分散していることが望ましい。強大な統一国家が誕生して、ビザンチンのように国家機構の一部として従属されてしまうことは最も避けねばならないことである。自治都市(コムーネ)もまた強大な帝権の下で、自由な商業活動が制約を受ける国家的統一には頑強に抵抗したのである。

次の教皇グレゴリウス9世は、十字軍遠征とフリードリヒがホノリウス3世に約束した事項を全く実行に移さないことを非難し、彼を破門した(1227年)。
フリードリヒは、これに対して教皇の世俗的野心を告発し、シチリアの聖職者たちが教皇の聖務停止令を無視するように要求し対抗した。そして、破門されたままパレスティナへ向けて出帆し、卓越した政治的手腕を発揮し、イエルサレムを回復するのに成功し、更にイエルサレム国王に就き、破門を解消させた。

Label:Castel-Monte
皇帝派と教皇派
この時代、各地の都市や領主は、それぞれ皇帝派(ギペッリーニ)と教皇派(グェルフィ)に分かれて激しく争うことになる。「ギペッリーニ」と言う言葉は、フリードリッヒのホーエンシュタウフェン家の城砦・ヴァイプリンゲンのイタリア訛りで、「グェルフィ」は、常に対立してきたドイツの有力なヴェルフェン家に由来する。両家の対立抗争がイタリアの持ち込まれ、やがて教皇とフリードリヒ2世が激しく争うようになって、大体1230年年頃から「ギベツリーニ」即ち皇帝派、{グェルフィ」即ち教皇派と言うことになる。

北イタリアの教皇派都市は、第2次ロンバルディア同盟(1226年)を結んで皇帝に対抗したが、フリードリヒは1237年にこれを軍事的に圧倒し屈服させた。更に、彼は、北・中部イタリア各地に皇帝代官を派遣し、各都市の首長(ポデスケ)の選出を監督、あるいは直接に任命した。ヴェローナのように、皇帝と同盟関係を結び著しく勢力を拡大した都市もあるが、この時代は、多くの自治都市(コムーネ)の主権が最も制約を受けた時期と言える。

これに対し、教皇・グレゴリウス9世は、ローマに公会議を開いてフリードリヒを皇帝の座から追うことを企てたが、フランス・イギリスの大司教・司教たちの船が、フリードリヒ側に捕えられ、全員が捕虜となってこの企ても失敗した(1241年)。このため次の教皇・インノケンティウス4世は、1245年、リヨンで公会議を開き、ついに皇帝の廃位を宣言した。

フリードリヒは、なおもドイツ.イタリアで戦闘を続けたが、1250年12月、南イタリアのフィオレンティーノ城(現在のフォッジャ県ルチェーラの近く)で病死した。 フリードリヒⅡ死後、近世末までイタリアの統一国家建設の政治勢力は生まれない。
フリードリヒ死後の大混乱の南イタリア
フリードリヒ死後、南イタリアは大混乱が生じた。
1266年、皇帝と対立していた教皇・アレクサンデル4世の意を受けた仏王・ルイ3世の息子アンジュー伯・シャルルが遠征し、南イタリアを制圧する。 しかし、1288年に起きるシチリア島民の大反乱(シチリアの晩鐘)によって、シチリア島を失い、首都をナポリに移し、「ナポリ王国」として、以後2世紀にわたって、フランスのアンジュー家による南イタリアの支配が続く。

一方、シチリア本島は、この反乱に際してシチリアの貴族がアラゴン王ペドロ3世に出兵を求めたため、アラコン王家が手中に収めた。更に、1442年には、後継者のいない「ナポリ王国」の女王の養子に、アラコン王のアルフォンソ5世の縁組が成立、「ナポリ王国」の相続権をも獲得する。以後、南イタリアは総て、スペインの統治が18世紀まで続くことになる

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